文政8年(1825年)に11代将軍・家斉の26男として生まれた松平斉宣を知っているだろうか。徳川将軍の実子でありながら、江戸時代随一の「クズ大名」と呼ばれた人物だ。
12代将軍・家慶の異母弟でもあったが、のちに播磨国明石藩の8代当主となった。この斉宣は将軍の息子、弟という立場を笠に着て、残虐非道の限りを尽くしたことで知られる。
その代表的なものが「幼児無礼打ち」だ。コトの発端は、参勤交代中の斉宣の大名行列が、御三家筆頭の尾張藩の領内を通過していた時。その際、3歳の幼児が間違って行列の前を横切ってしまったのである。
確かに当時、大名行列の前を横切るのはご法度で、無礼打ち、切り捨て御免にされても仕方がないが、相手は何も分からない3歳の幼児である。宿場町の人々や村民たちが斉宣の乗る籠の脇に群がり、涙ながらに必死の助命嘆願をしたが、斉宣は許さなかった。この幼児を本陣に連れていき、斬り捨ててしまったのである。
領内の残虐行為で面子を潰された尾張藩は激怒した。そして「今後
は明石藩の尾張藩領内の通行は認めない」と通告。徳川将軍でさえ一目置く尾張藩の処分に、さすがの斉宣も意義を唱えることができなかったが、参勤交代の際には尾張藩領内を通らなければいけない。それ以降、明石藩の武士たちは尾張藩内で行列を解散し、刀をもたずに農民や町人に姿を変えて、コソコソと通過していくようになった。
究極のバカ息子に天罰が下ったか…
斉宣は領内でもやりたい放題だった。例えば将軍の実子であることを理由に、幕府に対して「明石藩の家格(格式)を上げてくれ」と要求し昇格したが、実際の領地が増えたわけではない。そのため、上がった家格に見合うだけの贅沢な装備などを全て、従来の収入でまかなうようになった。
これで財政は完全にパンクし、年貢の取り立ては厳しくなった。領民の生活は圧迫され、怨嗟の声が渦巻くようになったのである。このため、最期は刺客に襲われ、命を落としたと伝えられている。
この話が映画「13人の刺客」のモデルになっているが、わずか19歳だったという。あるいは別の話もある。斬り捨てられた3歳児の父親で源内という猟師が、斉宣の行列を待ち伏せして狙撃。射殺して恨みを晴らしたという伝承がある。
ただ、公式文書には何も残っておらず、真相は分からないが、究極のバカ息子に天罰が下ったと思いたい。
二世タレントなどが親の威光を笠に着て尊大な振る舞いをすることがあるというが、いつの世もこんな輩はいるものである。
(道嶋慶)

