デビュー前から札幌のキャバレーで歌手として活動し、“すすきのの森進一”として名を馳せていた細川のもとに東京から「バーニングプロダクション」がスカウトに来た。
1年だけ勝負して、売れなければ札幌に戻ればいいという思いで細川は上京。ところが75年4月のデビュー曲「心のこり」からヒットし、以後、ずっとバーニングの所属だった。
円満な関係が続いていたと思われるが、内心は思うところもあったのか─。
「最盛期の細川は、年間200本に届こうかという地方興行をこなしたよ。それだけで年間5億円は所属事務所に入っていたようだ。それでも給料制で月500万円と決められていた、細川本人には1億円も入っていなかったって。事務所からすれば『いい時も悪い時も500万円払ってきた』という言い分があるけど、本人には『それしかくれない』という認識が芽生えてしまう。周囲が辞めた時のリスクを伝えても、独立に舵を切ってしまったんだ」(元興行関係者)
2000年代初頭の話だ。周囲の危惧が現実のものとなったのである。
タレントが独立する際、周囲に円満をアピールするためには、本人と旧所属事務所の連名でリリースを出すことが求められる。歌手であれば、レコード会社の名前も入れたほうがより効果的だという。
「森や五木、小林のようにそれができればよかったんだけど、細川は先走ってしまった。話がまとまる前段階で、入れ知恵する人間の口車に乗せられたのか、共同通信に独立のリリースを送ってしまったんだ。報道を知ってあきれた、当時のバーニング・周防郁雄社長は『そんなに独立したければ勝手にしろ』というスタンスで、9カ月先まで切っていたスケジュールの終了をもって独立という流れになったようだ」(元興行関係者)
ところが、細川個人では仕事を取ることが困難になり、独立までラスト3カ月となっても新しい仕事は入ってこなかったという。
「結局、不憫に思った周防社長が自身のかつての古巣である『新栄プロダクション』の西川幸男会長に電話を入れて、『細川を預かってもらえないか』と頼み込み、“移籍”という円満な落としどころを用意してあげたと言われる」(元興行関係者)
その後数年間、細川は新栄プロに所属し、個人事務所を設立して独立を果たしたのは05年のことだ。
バーニング時代には仕事がひっきりなしだったはずの細川が、独立を画策した途端に不調となる。そこにはカラクリがあるのだ。
元大手芸能プロ幹部が、演歌界の一般論を交えて話す。
「演歌歌手でも自身の名前だけでチケットが飛ぶように売れるのは、五木ひろし、氷川きよし、坂本冬美、天童よしみ、島津亜矢らです。一方で、人気にかかわらず、多くの演歌歌手はチケットがなかなか捌けません」
知名度のある演歌歌手たちには、少なからずヒット曲、耳慣れた持ち歌があり、生舞台に立てば客イジリで沸かせる技術もある。だからこそ、お金を払ってまで観ようというファンの集客が難しくとも、タダなら観たいという層が存在するという。
例えば2000年頃までは、全国に数多く存在する商店街の福引の景品や一定額購入のプレゼントとして「〇〇ショー」のチケットが重宝された。他にも、郵便局や各生命保険会社の勧誘にもチケットが使われたようだ。
「自発的にチケットを買ったファンがいなくとも、地方の体育館を大盛況にできたのは、景品として無料チケットが配られたからなのです。こうした地方興行で利益を得てきたのが演歌歌手ですが、景品としてのチケットの売買は所属事務所の後ろ盾がなくては成立しない。そして地方の興行師たちも、多くの歌手を抱えている事務所との関係性を大切にしてきました。だから演歌歌手が独立しても、興行師たちは旧事務所サイドに寄るため、収入面で大きな柱だった仕事が取りづらくなり、ジリ貧となるケースが出るのです」(元大手芸能プロ幹部)
要は「圧力」ではなく、周囲の「忖度」というわけだろうか。結果、令和の時代に至っても、演歌界にその名残りはあるようだ。

