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細川たかしのケースは異例/芸能界「プロダクションVSタレント」独立興亡記〈緊急集中連載②〉(1)

細川たかしのケースは異例/芸能界「プロダクションVSタレント」独立興亡記〈緊急集中連載②〉(1)

 売れっ子へと成長したタレントが、育ててもらった所属事務所から巣立っていく。大人の階段を登っていく世の中の道理のようで、美談の趣もある。ところが、双方の思惑は必ずしも一致しないのである。時に周囲が「忖度」に走り、それが「圧力」となることも─。

 まだ芸能プロダクションとタレントの間で契約書の概念が希薄だった、古きよきとも言うべき昭和の時代は今以上に歌謡界が花盛りだった。

 そもそもはテレビの普及が銀幕時代に終焉を迫り、その後、それまで以上に歌手が存在感を放つようになっていったのだ。

 当時を知る、元大手レコード会社の古参スタッフが語る。

「テレビ各局がゴールデンタイムに音楽番組を放送し、オーディション番組まで立ち上げて新たなスター発掘に心血を注ぎました。芸能プロも新人歌手の発掘に力を入れたのは、ビジネスとしての規模感の大きさがあったからです。1曲でもヒットを飛ばせば、レコードやカラオケの印税収入が見込め、コンサートやイベントの出演で多額のギャラが回収できた。俳優やタレントを育てる以上に、歌手の売り出しは実入りがよかったのです。テレビ黄金期に飛躍を遂げた大手芸能プロの多くは、売れっ子歌手を抱えていた。1963年に設立され、今なお芸能界最大の業界団体である『日本音楽事業者協会』が『芸能事務所』ではなく『音楽事業者』を冠としているのも、その名残りでしょう」

 もちろん、流行歌手が大きな金を生み出す存在となれば、みずからの収入や待遇に不満を覚えて独立を目指す者も出てくる。

 とりわけ、当時、独立騒動で世間を騒がしたのは演歌歌手が目立った。元興行関係者が、その金回りについて解説する。

「演歌歌手の稼ぎで重要なのは、テレビ出演で忙しくしている時期よりも、地方巡業となる自身のショーだな。古くは美空ひばりさんから、都はるみにしても島倉千代子にしても、自身の冠が付いたショーが商売になったんだ。例えば、単純に6000円のチケットだとして、昼夜2回興行だから、2000人×2=4000人とすれば、2400万円の売り上げ。経費を引いたとしても、1日で600万〜700万円は渡せるよ。俺たち興行師も700万〜800万円儲かるから、一蓮托生だったよな」

 育成に多大な時間と費用をかけることもあるアイドル歌手などとは違い、下積み経験も豊富な演歌歌手は、芸能プロに所属する前から盛り場などを舞台にマイク1本で稼いできた猛者も多い。独力で勝負できる自負もあるからこそ、独立志向が強いのかもしれない。

 79年には森進一が「渡辺プロダクション」から、五木ひろしが「野口プロモーション」から、87年には小林幸子が「第一プロダクション」から、それぞれ個人事務所を立ち上げて独立を果たしている。

 元大手芸能プロの幹部が語る。

「彼らは自身のヒット曲が出てから10年前後で、独立したいという思いに駆られたケースでしょうか。好きな仕事を選んで、気心の知れたスタッフを集めてやりたいという願望を実現するため、『お世話になりました』という意味合いで、億単位の金額をそれぞれの事務所に収めて“円満退社”しています。五木に関しては、2人の倍額を出したと噂されました」

 一方で、82年にリリースした「北酒場」、83年リリースの「矢切の渡し」で2年連続となる「日本レコード大賞」の「大賞」獲得、84年には「浪花節だよ人生は」で「最優秀歌唱賞」を受賞してからも20年近くにわたり所属事務所に残っていた、細川たかしのケースは異例だったようだ。

配信元: アサ芸プラス

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