長いプロ野球の歴史の中で、良くも悪くもこの男ほどメディアの注目を集めた選手はいない。"怪物"と呼ばれた超剛速球投手・江川卓(71)だ。
作新学院高校時代から有名だったが、それ以上に世間の注目を集めたのが、3度にわたるドラフトでの狂騒曲だ。とりわけ、球史に残る「空白 of 1日」を経て巨人入りを決めた一件では日本中から批判の的に。マスコミも江川の一挙手一投足を追いかけ回した。スポーツ紙記者の私も、その1人だった。
江川を初めて取材したのは、阪急ブレーブスの1位指名(1973年ドラフト会議)を断って進学した法政大学3年生の時だった。私も同大野球部出身だった縁もあって、チームが遠征で宿泊していた兵庫県神戸市内の宿舎を訪ねて単独インタビューをした。
江川もドラフト制度に疑問を抱いていたようで、遠慮気味にではあるが、こんな話をしてくれた。
「生意気なようですが、自分の好きな球団で野球ができないような仕組みはなくしてほしいですね。一生の問題ですから」
直に会った江川は世間がイメージする生意気なスーパースターではなく、どこにでもいる初々しい大学生だった。
大の飛行機嫌いだった怪物と心の支えとなった「スチュワーデス」
それから江川のことは何度も取材することになり、法政大OB筋からはプライベートな事柄も耳に入ってきた。まだプロ野球選手ではなかったため、記事にはしなかったが、その1つが"彼女"(後の正子夫人)の存在だ。江川は昔から大の飛行機嫌いで、アメリカ遠征の機内でも震えていたが、そんな彼を心配してくれた日本航空の国際線スチュワーデスが正子さんだった。
江川は大学卒業を控えた1977年秋のドラフトで、クラウンライターライオンズからの1位指名を拒否したが、後に「巨人がダメでも巨人と対戦でき、交際中だった彼女と遠距離交際にならない在京セ・リーグ球団なら行っていた」と語っている。巨人入りを熱望していたことは間違いないが、正子さんの存在も進路に影響する大きな要因になっていたわけだ。
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野球界を揺るがした電撃発表と「江川を探し出せ! 」の緊急指令
そして迎えた翌1978年11月22日のドラフト会議前日、巨人が江川との契約を電撃発表する。これが球史に残る「空白の1日」だ。当時の野球協約の盲点をついた盟主・巨人の暴挙に他の11球団は猛反発し、前代未聞のボイコット騒動へ発展した。
大混乱のドラフト会議で阪神が江川の交渉権を獲得すると同時に、私に大阪スポニチの部長から「江川を探し出せ。3日以内だ!」の緊急指令が下った。
行方をくらました江川を追う中で、私は交際相手である正子さんの自宅の張り込みを開始。夕方、車で外出した彼女をタクシーで追ったが途中で見失ってしまう。そこで南海の球団代表が語っていた「江川はまず水島新司先生のところへ挨拶に行く」という情報を思い出し、水島氏の自宅へ向かった。
スタッフには「いらしてません」と断られたが、駐車場には正子さんの車があり、家の中からは江川の笑い声がかすかに聞こえてきた。確信を得た私は、翌朝に彼女の車が消えたタイミングで、江川の実家に電話を入れる。早朝にもかかわらず、電話に出たのは江川本人だった。
カメラマンと合流してすぐ実家に向かうと、江川本人が自宅の門の前まで出て来てくれた。
「阪神から指名されたけど、どうしますか?」
私が質問を投げかけると、江川は冷静に答えた。
「阪神さんと巨人さんに話し合ってもらうしかないですよ――」
この短い一言が、ドラフト後初の肉声として翌日のスポニチ1面を飾る独占スクープとなった。
【後編に続く】
吉見健明
1946年生まれ。スポーツニッポン新聞社大阪本社報道部(プロ野球担当&副部長)を経てフリーに。法政一高で田淵幸一と正捕手を争い、法大野球部では田淵、山本浩二らと苦楽を共にした。スポニチ時代は“南海・野村監督解任”などスクープを連発した名物記者。『参謀』(森繁和著、講談社)プロデュース。著書多数。
