織田信長が弟の信勝を殺害し、織田家の実権を握ったことは知られているが、信長の弟は信勝ひとりではない。11人もの弟がいたと伝わっている。
その弟のひとりを殺害して、一時逃亡していた人物がいる。父・信秀の弟・信次で、信長にとっては叔父にあたる。この信次は守山城主だった若い頃、城下町では有名な「不審者」だった。
女装して胸をはだけて太腿を出し、顔には白粉をベタベタに塗りたくって口紅をさす。そんな姿で日々、城下をうろついていた。さらに物陰から急に飛び出して通行人を驚かせ、いたずら半分で荷物や小物を奪い取っては、相手が困惑する様子を見て腹を抱えていたという。
もはや不審者を通り越して、異常性格レベルでしかない。今なら警察に通報され、逮捕されても不思議ではないだろう。
この信次がとうとう、やらかしてしまった。弘治元年(1555年)のある日のこと。信次は家臣を連れて、領内の庄内川で「川狩り(魚捕りや水遊び)」を楽しんでいた。そこへ一人の若い武士が馬に乗ったまま、通りかかったという。
家臣たちは「無礼者、馬から降りろ」と怒鳴ったが、その若者は無視して馬を走らせた。これに激怒した家臣の洲賀才蔵という弓の名手が威嚇のため、矢を放った。ところが運悪く、この矢は若者の胸を直撃。即死させてしまったのである。
家臣を置き去りにして闇夜に紛れ逃げ出した
近づいて死体の顔を確認した信次は驚愕した。この若者はなんと、信長が可愛がっていた実弟の秀孝だったのだ。いくら叔父とはいえ、信長が許すわけがない。即座に軍を率いて信次の居城である守山城を包囲し、城下町を焼き払ってしまった。
ここで信次は戦わず、家臣たちを全員、置き去りにして闇夜に紛れ、逃げ出した。なんとも気概のない男だ。さすがに女装はしていなかっただろうが、ここから数年間は、今でいうホームレスのような生活を強いられたらしい。
それから年月が経ち、信長の頭も冷えた。信次本人は殺害行為に及んでおらず、事故だったということを理解し、信次は守山城主への復帰が許された。
ここから女装癖は鳴りを潜め、真面目に武将として信長に仕えたが、天正2年(1574年)、信長が総力を挙げた「長島一向一揆」第三次攻撃に従軍。追いつめられた一揆宗教徒たちの捨て身の猛反撃にあい、壮絶な討死を遂げたのである。
女装の奇人、そしてホームレス、最期は武将として死んだ信次の生涯は、当時としてもかなり波乱万丈だった。
(道嶋慶)

