
X線検査はいまや、現代医療に欠かせない技術です。
しかし、X線が発見されたばかりの時代、その光線が人体へどのような影響を与えるのかは、ほとんど理解されていませんでした。
装置を調整するために、研究者や医師が自分の手をX線にさらすことさえ珍しくなかったのです。
そんなX線研究の黎明(れいめい)期に、長期間の被曝によって命を落とし、「世界初のX線被曝による死亡者」と考えられている人物がいます。
彼の名は、クラレンス・マディソン・ダリー(1865〜1904)。
ダリーは科学者ではなく、トーマス・エジソンの研究所で働いていたガラス職人でした。
医療を大きく前進させた技術の開発に貢献する一方で、その危険性を自らの体によって示すことになったのです。
目次
- 発見されたばかりの「未知の光」に魅了されたエジソン
- 世界初のX線被曝の犠牲者に
発見されたばかりの「未知の光」に魅了されたエジソン
1895年11月、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンは、とある実験中に奇妙な現象を発見しました。
陰極線管(※)を黒い厚紙で覆っても、離れた場所に置かれたスクリーンが蛍光を発したのです。
(※ 陰極線管とは、ガラス管の中の空気をほとんど抜き、電気を流すことで電子を飛ばす装置)
レントゲンが詳しく調べると、この未知の光線は紙や木材、人体の軟らかい組織などを通り抜ける一方で、骨や金属の影を残すことが分かりました。
彼は正体が分からないことを示すため、この光線を「X線」と名付けます。

体を切り開くことなく、その内部を見られるという発見は、世界中の科学者や医師を熱狂させました。
この知らせを聞き、すぐにX線の実験に乗り出した人物の1人が、発明家トーマス・エジソンでした。
米ニュージャージー州にあったエジソンの研究所では、電灯や蓄音機、映像装置など、後の社会を変える技術が研究されていました。
クラレンス・ダリーも、この研究所で働いていた人物です。
1865年にニュージャージー州で生まれたダリーは、ガラス職人の家族のもとで育ちました。
10代でアメリカ海軍に入り、6年間の勤務を終えた後、父や兄弟とともにエジソン・ランプ・ワークスで働くことに。
その後、24歳ごろにエジソンの研究所へ移り、白熱電球の実験に必要なガラス管の製作などを担当しました。
X線が発見されると、エジソンは蛍光物質を利用して体内を観察する「蛍光透視鏡」の開発を始めます。
蛍光透視鏡とは、X線を当てた物体の像を蛍光板に映し出し、その場で骨や異物の位置を観察する装置です。
エジソンは「タングステン酸カルシウム」という物質がX線を受けると強く光ることを見いだし、より明るく見やすい蛍光透視鏡の開発を進めました。
ダリーは、その装置に使うX線管の製作や性能試験を任されました。
しかし当時は、放射線量を正確に測る装置も、作業者を守るための明確な安全基準も存在していませんでした。
ダリーが管の性能を確かめる方法は、自分の手をX線管と蛍光板の間に置き、骨がはっきり見えるか確認するというものだったのです。

彼はこの作業を、数年間にわたって何度も繰り返しました。
1896年にはエジソンとともにニューヨークの展示会へ参加し、一般の観客に蛍光透視鏡を実演しています。
見物人たちは列をつくり、装置をのぞき込んで、自分の手の骨が映し出される光景に驚きました。
X線は、まるで人間に「透視能力」を与える新技術のように見えたのです。
しかし、その華々しい実演の裏側で、ダリーの皮膚や細胞には目に見えない損傷が蓄積していました。
当時すでに、X線を浴びた人の皮膚に炎症や脱毛が起きる事例は報告されていました。
眼への悪影響を警告する研究者や、遮蔽物を使うよう勧める医師もいました。
それでも、X線が持つ医学的な可能性への期待はあまりにも大きく、その危険性は十分には重視されませんでした。
世界初のX線被曝の犠牲者に
1900年ごろになると、ダリーの手や顔には深刻な異変が現れ始めました。
皮膚には治らない病変が生じ、髪だけでなく、眉毛やまつ毛まで抜け落ちました。
顔には深いしわが刻まれ、特に実験で繰り返し使っていた左手は大きく腫れ、激しい痛みを伴うようになりました。
しかしダリーは、実験そのものをやめるのではなく、左手の代わりに右手を使い始めました。
当然ながら、それは解決にはなりませんでした。
やがて右手にも同じような症状が現れ、両手は焼けつくように痛むようになりました。
夜になると、ダリーは痛みを和らげるため、両手を水につけたまま眠ったと伝えられています。
当時の研究者たちは、X線による皮膚障害については気づき始めていました。
しかし、放射線による損傷が体内に蓄積し、長い時間をかけてがんを引き起こす可能性までは、十分に理解されていませんでした。
ダリーも、しばらく実験から離れて休めば、やがて体は回復すると考えていたようです。
しかし、彼の病状は、さらに悪化していきました。
手の皮膚は、熱湯でひどいやけどを負ったような状態になっていたといいます。
脚から採取した皮膚を左手に移植する手術が何度も行われましたが、病変を治すことはできませんでした。
やがて左腕にがんが認められ、ダリーは肩のすぐ下から腕を切断することになります。
その数カ月後には右手にも同じような症状が現れ、4本の指が切断されました。
さらに1903年には右腕も切断されましたが、それでも病気の進行は止まりませんでした。
働けなくなったダリーには、妻と2人の息子がいました。
エジソンは彼を雇用名簿に残し、生きている間は給与を支払い続けたとされています。
同時にエジソンは、自身も眼に異常を感じていたことから、X線の研究を中止しました。
エジソンは後に「X線の話はするな。私はあれが怖い」と語っています。
自分は比較的弱いX線管を使っていた一方で、ダリーはより強力な管を使って実験していたため、被害が大きくなったとも説明しました。
【ダリーの顔写真がこちら】
1904年10月、クラレンス・ダリーは39歳で亡くなりました。
死因については、長年のX線被曝によって生じた慢性的な放射線障害を経て進行した、転移性がんだったとされています。
そのためダリーは、X線への職業的な被曝によって死亡した世界初の人物と考えられています。
ただし、ダリーの死だけが、現在の放射線防護制度を直接生み出したわけではありません。
同じ時代には、多くの医師、技術者、研究者が手の炎症や潰瘍、脱毛、白内障、がんなどに苦しんでいました。
こうした症例の蓄積に加え、放射線量を測る技術や人体への影響に関する研究が進んだことで、遮蔽、照射時間の短縮、線量管理といった考え方が徐々に発達していきました。
国際的な放射線防護組織が設立されたのは1928年であり、ダリーの死から20年以上後のことです。
現在、医療現場では必要な範囲にだけX線を照射し、患者と作業者の被曝を可能なかぎり少なくする対策が取られています。
こうした安全対策は、ダリーを含む初期の研究者たちが負った被害と、その後に積み重ねられた数多くの研究から築かれたものです。
X線は、人間の目では見えない体内を映し出し、医学を大きく前進させました。
しかし、目に見えない光線は、その危険性もまた人々の目から隠していました。
クラレンス・ダリーは、X線の有用性を証明した開発者の1人であると同時に、その恐ろしさを最初期に世界へ示した人物でもあります。
彼の悲劇は、未知の技術に挑むときには、可能性だけでなく、まだ発見されていない危険にも目を向けなければならないことを伝えています。
参考文献
The Tragic Story Of Clarence Madison Dally, Thomas Edison’s Assistant And The World’s First Victim Of X-Ray Exposure
https://www.iflscience.com/the-tragic-story-of-clarence-madison-dally-thomas-edisons-assistant-and-the-worlds-first-victim-of-x-ray-exposure-84251
Clarence Dally — The Man Who Gave Thomas Edison X-Ray Vision
https://www.smithsonianmag.com/history/clarence-dally-the-man-who-gave-thomas-edison-x-ray-vision-123713565/
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部

