タイガースは「縦縞」、ドラゴンズは「ブルー」、カープは「赤」……ユニフォームはチームのアイデンティティを体現していると言っても過言ではない。今では、多くのファンが応援するチームのユニフォームを身にまといながら球場に足を運ぶ。
当然、ユニフォームにも長い長い歴史がある。そして日本には、そのユニフォームを研究する専門家が存在する。"野球意匠研究者"の綱島理友氏だ。2013年に『日本プロ野球ユニフォーム大図鑑』(ベースボール・マガジン社)を上梓し、各球団の復刻ユニフォームイベントにも携わった唯一無二のプロフェッショナルは、いかにして生まれたのか? ご本人が自ら語ってくれた。
* * * * *
「もう30年くらい前に、雑誌『Tarzan』(マガジンハウス社)の「体育の着こなし」という連載でプロ野球を取り上げようということになって、東京ドームにある野球殿堂博物館に調べに行ったんです。ところが、まとまった資料がほとんどない。何しろ「これで調べてください」って渡されたのが、『週刊ベースボール』の束でしたから(笑)。それで、「ああ、これは自分でやるしかない」と思ったんです」
「そもそも、子供の頃からずっと野球は好きだったんです。父が大洋漁業(注:現マルハニチロ。DeNAの前身太洋ホエールズのオーナー企業)に勤めていたので、幼い頃からホエールズファン。池袋の太洋漁業の社宅に住んでいたんですが、当時は「大洋ホエールズ子供会」に入っていると、川崎球場のデーゲームの外野席が10円で入れたのでよく行っていました。子供会バッヂを見せると10円だった。子供の頃のヒーローは桑田武さん(注:プロ1年目の59年にルーキーで本塁打王を獲得したスラッガー)、それに森徹さん(注:60年代に中日・大洋で活躍した強打者。59年に本塁打王)でしたね。森さんは横須賀の道場で1964年の東京オリンピックの柔道重量級で金メダルを獲得した猪熊功とライバルだった。早稲田大では野球と柔道をやっていて、漫画『巨人の星』の伴宙太のモデルでもあったんですよ」。
「メジャーリーグにも早い段階から興味を持っていました。日本のプロ野球よりもメジャーに興味を持ったのが先だったくらいです。きっかけは村上雅則さんがメジャー初勝利を挙げたというニュースがNHKで流れてきたことです(1964年9月)。確か映像はモノクロ写真が3枚くらいブラウン管に映っただけでした。当時は東京オリンピックの直前で、ようやく日本が国際社会に認められた雰囲気がありました。戦争に負けてまだ貧乏な時代だったし、オリンピックの開催で、やっと日本が世界に認めてもらえるようになったみたいな話を大人たちから聞かされていた。そんなときに村上さんがアメリカで勝っちゃったってニュースが流れた。で、すごく興味を持ったんです」
幼少期からの経験もあって、「プロ野球ユニフォーム史」をたどる仕事に精力的に取り組み始めた綱島氏。だが、歴史を掘り下げる作業は苦労の連続だった。
「球団管理の部分を取材するのにかなり苦労しました。西鉄ライオンズ(現西武)の球団旗は、新しく旗を作るたびに『LIONS』の書体が全部変わっている。アメリカにもドジャースのマークを年代ごとに分類している人がいますが、あちらは年代ごとに少しずつ変わっているんだけど、西鉄の場合は書体がバラバラ。形に一定の変化の流れみたいなものもないので時期の分類も難しい。新しく作るたびに旗屋さんがその時に使いやすい書体に勝手に変えちゃったみたいなんですよね。
阪神も虎のマークがずっと変わっていないイメージがありますが、いい加減に使われていた時期もありました。特に60年代が酷くて、虎の形が崩れていた。虎が正面を向いている旗なんかもあったりしましたからね。これがちゃんと野球殿堂博物館にも残ってるんですから」
「中日もあれだけ歴史のある球団なのに、以前はユニフォームに一貫したスタイルがなかった。数年でコロコロ変わってしまう。もともと名古屋にはふたつの新聞社があって、ふたつの球団があったんですよ。新愛知の名古屋軍と名古屋新聞の名古屋金鯱軍。ところが戦時下の新聞統制で新愛知と名古屋新聞が合併することになった。それで出来たのが中部日本新聞(中日新聞)。この合併前に名古屋新聞の名古屋金鯱軍は東京の球団と合併して戦時下に解散し姿を消している。しかし新愛知の名古屋軍は残った。戦後、この球団が中日ドラゴンズになるわけだけど、戦後、中日新聞の社長は新愛知系と名古屋新聞系の人が交代で務めた。で、ドラゴンズのオーナーも何年かごとに交代でやっていた。オーナーが代わると、球団の人事からユニフォームまですべて変わってしまう。そういうことを繰り返してきたんです。それが本当にもったいなかった。格好いいデザインも定着しない。だから、『こんなバージョンもあったのか』というユニフォームがたくさんある。資料としては面白いんですが、一つのデザインが伝統として根付かなかったのは少し残念な気がします」
「ただ、中日は球団が50年代のものまで、比較的きちんと保管していたのでそこは助かりました。『名古屋は物持ちがいいのかな』と思いましたね(笑)」
「そもそもユニフォームを戦前のものから調べようと思ったら、昔はモノクロ写真なので色が分からないんですよ。ただ、当時はまだプロ野球創成期の選手の皆さんがご存命だった。いちばんの年長者は苅田久徳さん(注:卓越した守備力から『苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし』と謳われた名二塁手)だったかな。お宅を訪ねました。ご本人はあまり覚えてらっしゃらなかったんですけど、奥様が「私、色分かります」っておっしゃるんです。何でかというと、当時ユニフォームを洗濯してたからって。それでここは何色、ここは何色って教えてもらいました。
野球殿堂博物館にもいろいろ調べに行っていたんですが、当時千葉茂さん(編集部注:長嶋茂雄の前に巨人の背番号『3』を着けていた名二塁手。愛称は"猛牛"で、後に近鉄の監督に就任した際、チーム名がそれにちなんでバファローズになった)も野球雑誌やスポーツ新聞の記事を書くための資料確認で博物館の図書室に通っておられました。何度かインタビューさせていただいて、在籍された読売ジャイアンツはもちろんのこと、他球団のユニフォームの色などについて教えてもらって、すごく助けられましたね。
また、杉下茂さん(注:50年代の中日で活躍した"フォークの神様"。通算215勝)など、数々の往年のレジェンドにもお話を伺う機会がありました。自分にとって子供時代のヒーローだった人が電話すれば会ってくれるんですよ。本当に取材する過程は楽しくてしかたなかったですね」
「今は球団によって意匠管理がしっかりしてるけど、戦後から80年代くらいまではずいぶんとルーズだったんですよね。だからなのか、以前、日本ハムが東映フライヤーズ時代の復刻ユニフォームを作った時、いきなりミズノから電話がかかってきたことがあったんです。『帽子の茶色って、どんな茶色ですか?』と聞かれてね(笑)。球団にも資料がない。だからこちらも足で稼ぐしかない。いろいろなOBの元を訪ねて保存してあるユニフォームを見せてもらったりもしました。ただユニフォームは基本的には球団の持ち物なので、シーズンが終わると球団に戻すのがルール。なので昔の選手で保存している方は意外と少なかったですね。あとはマニアや野球殿堂博物館の収蔵品、当時の選手たちや観客席で見ていた人の証言などを全部突き合わせながらユニフォームの具体的な形を再現していきました」
なぜこれほどまでに苦労しながらも、いまだに綱島氏はユニフォームを探求し続けるのか。"プロ野球意匠学研究家"としての醍醐味も綱島氏は教えてくれた。
「ユニフォームって本当に面白いんです。野球だけ見ていても分からない。文化も、時代も、ファッションも、素材も、全部そこへ詰まっている。だから僕は何十年たっても飽きないんですよ。調べれば調べるほど、新しい発見がある。
『この時代は、どうしてこの色だったのか』『どうして、この書体だったのか』。そういうことを一つひとつ追いかけていくと、その時代の社会まで見えてくる。だから、ユニフォームを研究しているというより、野球文化そのものを研究しているという感覚なんです。
先ほども言いましたが、千葉さんにお話を聞いた時は、ユニフォームだけでなく『カツカレーの発明は自分だ』なんて話もご本人から直接聞くことができました。本当に取材する過程は楽しくてしかたなかったですね」
※後編へ続く
取材・文●SLUGGER編集部
「ユニフォームは球団の歴史を身にまとうもの」日本唯一の"野球意匠学研究者"が語る日米の「意識の違い」<SLUGGER>
「史上最悪」「これ以上酷くできない」オリオールズ新ユニにSNS酷評 一方で「多くのファンが購入」と現地報道も
斬新かつ大胆なデザインが話題沸騰!MLBの最新トレンド「シティコネクト・ユニフォーム」を勝手にランキング<SLUGGER>

