ワールドカップの本当の姿は、テレビには映らない。
FIFAが流す美しいオフィシャル映像にも、ハイライト番組にも出てこない。
本当のW杯は、渋滞にはまり、炎天下を何キロも歩き、帰りの交通手段が見つからず途方に暮れる、そんな場所にある。少なくとも私にとっては――。
私は今回の北中米大会で、11度目となるW杯を取材した。約2か月にわたってメキシコとアメリカを駆け回り、スタジアムだけで23試合を観戦した。だが、一番印象に残ったのは試合ではなく、人だった。
最初の取材地メキシコは、到着した瞬間から空気が違った。開幕戦の日、国全体がW杯一色に染まった。朝にパンを買い求める人も代表ユニホーム姿、道路を掃除する人も、バスの運転手も、レストランの店員も、みんな緑のメキシコ代表シャツを着て仕事をしている。
赤ちゃんも子ども代表ユニホームだ。驚いたことに、散歩中の犬までメキシコ代表のシャツを着せられていた。猫やアヒルもそうだったようだ。国全体が動きを止め、営業しているのは最低限の店だけ。開幕日は事実上、祝日のような空気になっていた。
「これこそW杯だ!」
久しぶりに、そんな気持ちになった。レストランでは伝統音楽が流れ、開幕戦を祝う特別メニューが並ぶ。街全体が、そのままスタジアムになっていた。
もちろん、そこへたどり着くまでは大変だった。エスタディオ・シウダ・デ・メヒコ(通称アステカ・スタジアム)へ向かうには、まずUber。途中からタクシーに乗り換え、さらに路線バスへ。
ところが、そのバスが2時間も渋滞にはまり、最後は炎天下を2キロ歩くことになった。汗だくになりながら歩いているのは私だけではない。
周囲では何万人ものサポーターが「メヒコ! メヒコ!」と歌い続けている。苦労しているはずなのに、誰も怒っていない。だってこれはW杯だから。
スタジアム周辺はまさにお祭り騒ぎだった。屋台が何百軒も並び、本場の激辛タコスを売る人、帽子を売る人、“ちょっと怪しい”代表ユニホームのコピー商品を売る人。
一方で、スタジアムの中へ入ると景色は一変する。チケットは高額なもので約2000ドル(約30万円)。客席の多くを埋めていたのは裕福な人たちだった。サッカーに情熱を捧げる多くの人は、そこには入れない。
それでも少しでもW杯を肌で感じたいと、スタジアムの周囲に集まっている。だからこそ、私は思った。本当のW杯はスタンドよりも、その外にあったのではないかと。
屋台で笑う人たち。歌い続けるサポーター。犬まで代表ユニホームを着て歩く街全体に、この大会の心臓があった。
ところが、その数日後、私はまったく違う世界を見ることになる。メキシコからアメリカへ入った瞬間、空気は一変した。空港では誰もW杯の話をしていない。
すべてが整っている。交通もホテルもスタジアムも効率的。ただ熱気だけがない。情熱の国を離れ、まるで別の惑星へ降り立ったような気分になった。
私のW杯も一変した。同じ大会なのに、まるで別のイベントを取材しているようだった。
物価は一気に跳ね上がり、500ミリリットルの水が8ドル(約1200円)近くすることも珍しくなかった。街から街への移動だけでも一苦労だ。「今日は何を食べよう」ではなく、「今日は何を食べられるだろう」と考える日も少なくなかった。
この大会で私は、まるで二つの人生を同時に生きていた。朝は節約のためファストフードを食べていたと思えば、二日後にはクラレンス・セードルフ(元オランダ代表MF)と朝食を囲み、パパイヤを食べながら「なぜカーボベルデが今大会最大のサプライズになったのか」を語り合っている。
飛行機ではファーストクラスでロベルト・カルロス(元ブラジル代表DF)と立ち話を30秒ほどし、その後は、自分はエコノミークラスの最後列へ向かう。この落差が、フリーランス記者という仕事なのだ。
ある日はアルゼンチン戦を取材するため、テキサスからカンザスシティまで約12時間、車を走らせた。眠くなればマクドナルドの駐車場で仮眠を取り、またハンドルを握る。
オクラホマ州では暑さが厳しすぎて、エアコンを切ると車内で眠ることすらできない。だからといってエンジンをかけ続ければガソリン代がかさむ。
「もう少し走ろう」
そう自分に言い聞かせながら、夜の高速道路を走り続けた。
そんな数日後には、マイアミの高級レストラン「チプリアーニ」でロナウジーニョ(元ブラジル代表FW)と一緒に生ハムとメロンを食する。数日前まで「今日もタコベル(メキシカン・ファストフード)で我慢するか」と考えていた自分が、今度は世界的スーパースターと同じテーブルに座っている。人生は本当に分からない。
その夜、ロナウジーニョは約70人だけが招待された食事会で、イタリア・セリエCのラベンナで現役復帰するというサプライズを発表した。そんな場面に立ち会えるのも、この仕事ならではだ。
BBCの仕事では専属ドライバー付きの車で移動し、荷物はスタッフが運んでくれた。ところが、その2日後、モンテレイでは空港からバスを乗り継ぎ、重い荷物を抱えたまま2キロを歩いてスタジアムへ到着すると、記者席は4階。しかもエレベーターは故障中だった。気温34度、湿度90%。汗だくになりながら階段を上ったあの日は、今でも忘れられない。
そして大会最後の大仕事、ニューヨーク・ニュージャージー・スタジアムでの決勝。11回のW杯取材で、あれほど混乱した現場は初めてだった。
森林火災の影響で航空便は次々と欠航し、飛行機代は通常の何倍にも跳ね上がる。スタジアム周辺は大渋滞。駐車場は350ドル(約5.5万円)、タクシー料金も信じられないほど高騰した。
さらにアメリカ大統領の来場で厳重な警備が敷かれ、1500人を超える報道関係者がプレス席に入れたのは、すでに決勝が始まったあとだった。W杯決勝で、世界中の記者がキックオフに間に合わない――そんな光景を私は初めて見た。
それでも、この仕事を嫌いになることはない。
ある日はVIPラウンジでシャンパンを飲み、翌日はリュックを背負って街を歩く。車中泊をしたかと思えば、その翌日にはリオネル・メッシ(アルゼンチン代表FW)やヴィニシウス・ジュニオール(ブラジル代FW)、トーマス・トゥヘル(イングランド代表監督)を取材する。
この振れ幅こそが、W杯取材の魅力なのだ。
53日間、23試合。汗をかき、迷い、笑い、ときどき途方に暮れながら過ごした11回目のW杯。
テレビでは決して映らない景色こそが、私にとっては一番忘れられない大会の思い出になった。
文●リカルド・セティオン
翻訳●利根川晶子
【著者プロフィール】
リカルド・セティオン(Ricardo SETYON)/1963年8月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。ジャーナリストとして中東戦争やユーゴスラビア紛争などを現地取材した後、社会学としてサッカーを研究。スポーツジャーナリストに転身する。8か国語を操る語学力を駆使し、世界中の現場を取材。多数のメディアで活躍する。過去にはFIFAの広報担当を務め、1998年と2002年のW杯ではブラジル代表の広報スタッフとして活躍。ジーコやカフー、ドゥンガらとの親交も厚い。スポーツ運営学、心理学の教授として大学で教鞭も執っている。
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