
画像は『借りぐらしのアリエッティ』静止画より (C)2010 Mary Norton/Keiko Niwa/Studio Ghibli, NDHDMTW
【画像】え、「うわ~」「思ってたより怖い」こちらが『アリエッティ』小人からの“恐怖”の目線です
実はそもそもの「前提」が違う
スタジオジブリの長編アニメーション映画『借りぐらしのアリエッティ』といえば、人間の家から必要なものを「借りて」暮らす小人たちの物語です。しかし実際には、持ち去ったものを返す場面はほとんど描かれておらず、ネット上には「一度も返していないのだから借りパクでは?」というツッコミがたびたびあがります。
それでもタイトルが「借りぐらし」とされているのは、いったいなぜなのでしょうか? 2027年8月7日の「金曜ロードショー」放送を前に、その理由を紐解いていきます。
物語の主人公「アリエッティ(CV:志田未来)」は、好奇心旺盛な小人の少女です。人間の少年「翔(CV:神木隆之介)」が東京郊外の古い一軒家へやって来たその日、アリエッティは父親の「ポッド(CV:三浦友和)」とともに、初めて人間の居住エリアへ「借り」に出かけます。
最初にふたりが手にしたのは角砂糖です。しそジュースやお茶に使いたいと、母親の「ホミリー(CV:大竹しのぶ)」から頼まれていたものでした。さらに道中で1本のまち針を見つけると、アリエッティはそれを武器として持ち歩くようになります。
ほかにも作中では「借り」の場面こそ描かれていませんが、ホミリーが編み物に使っていた毛糸や、アリエッティが水筒代わりに使っていた魚型の醤油差し、ビスケットなどの食べ物も恐らく人間から「借りて」きたものでしょう。
こうした品々が返却された場面は作中に登場せず、確かに「借りっぱなし」という指摘にも一理あります。しかし小人たちの「借り」は、一般的な「借りパク」とは大きく異なるものでした。
まず小人たちが「借り」を行ううえでもっとも避けなければならないのが、人間に存在を知られることです。そのためドールハウスの家具のように、人間が不自然に感じるものを持ち去ることはありません。彼らが借りるのは、ティッシュや角砂糖など、なくなっても人間が気付かないようなものばかりです。
しかも必要以上に持ち去ることはせず、生きるために必要な分だけを人間から分けてもらっていました。つまり彼らにとって「借りる」とは、返却を前提とした人間同士の貸し借りではなく、必要なものを必要な分だけ分けてもらう、彼らなりの「共存」の形だったのです。
実はこの「必要な分だけを借りる」という考え方こそが、本作の企画の出発点でもありました。原作となった『床下の小人たち』は、1952年に発表されたイギリスの児童文学です。映画化に向けた議論の場で、企画および脚本を担当した宮崎駿さんはプロデューサーの鈴木敏夫さんから「なぜいま、『床下の小人たち』なのか?」と問われたといいます。
そこで宮崎さんが挙げたのが、「借りぐらし」という設定でした。大衆消費の時代が終わりに近づくなか、「買う」のではなく「借りてくる」という発想こそ時代に合っているという対話を経て、当初『小さなアリエッティ』と題されていた企画は、『借りぐらしのアリエッティ』に改題されたといわれています。
返したかどうかという視点でいる限り、小人たちの生き方が「借りパク」に映るのは自然なことです。しかし「消費」という物差しで見れば、宮崎さんが「借りぐらし」という言葉に込めた意味も違って見えてきます。
必要以上に手に入れては消費する社会と、必要な分だけを人間から分けてもらう小人たち。本当に「借りっぱなし」なのは、いったいどちらなのでしょうか。その視点で改めて『借りぐらしのアリエッティ』を見返すと、これまでとは違った作品に映るかもしれません。
