2000年代の前半から中盤、相次いで3歳の強豪を送り込んで競馬シーンを引っ張っていたのは、競馬新聞のトラックマン出身という非常に珍しい経歴を持つ名トレーナー、松田国英だった。
松田は牡馬に対してユニークな考えを持ち、競走成績はもちろんだが現役時代、いかに種牡馬価値を上げられるかを重要視した。そのためにNHKマイルカップ(GⅠ)と日本ダービー(GⅠ)の制覇を狙う、俗に言う「変則二冠」を目指すというローテーションを先導する役目を担った。
この試みに関して取材した際、松田は次のように語った。実に説得力に満ちた主張だった。
「みなさんは変わったことだと言いますが、英国を見てください。一冠目の2000ギニーは1600、続くダービーは2400m。何も変わったことではないんですね。それに、マイルと2400のGⅠを勝つことによって、スピードとスタミナを併せ持った馬ということで、種牡馬入りする際の価値がとても高くなる。私はそこに重きを置いて考えているんです」
2000年に松田のもとに芦毛の牡馬が入厩した。外国産馬に「クロフネ」と名付けるという、ウイットに富むネーミングが印象的な優駿だった。2歳時に2勝を挙げたクロフネは、3歳になった2001年、毎日杯を制すると皐月賞には見向きもせず、敢然と変則二冠制覇にチャレンジする。“一冠目”のNHKマイルカップは1番人気に応えて難なく快勝。しかし続く日本ダービーでは直線で伸びを欠き、ジャングルポケットの5着に敗れた。二冠制覇という松田の野望は潰えた。
だがその後、ジャパンカップダートなどで破格の強さを見せたクロフネは種牡馬として、GⅠレース2勝のカレンチャンを出すなどの成功を収めた。
クロフネの日本ダービーから約2か月後、松田国英厩舎の期待馬が札幌でデビューする。父ブライアンズタイム、母タニノクリスタル(父クリスタルパレス)という血統で、北海道・静内町のカントリー牧場にて生まれた牡馬、タニノギムレットである。 カントリー牧場の開祖である谷水信夫は、存命時にタニノハローモア(1968年)、タニノムーティエ(1970年)で日本ダービー2勝という偉業を達成した。信夫はスパルタ育成で大きな成果を挙げたが、1971年に交通事故で急逝。そのあとを継いだ子息の谷水雄三は海外にも視野を広げ、英ダービーと凱旋門賞を制した歴史的名馬シーバード(Sea-Bird)産駒の牝馬を1973年に米国のセリで購買。タニノシーバードと名付けられた彼女は、タニノギムレットの祖母となる。
2001年8月、デビューの新馬戦(札幌、ダート・1000m)を2着に取りこぼしたタニノギムレットは年末の未勝利戦(阪神・芝1600)では3番手から突き抜けると、2着に7馬身(1秒2)差を付けて圧勝。一躍、クラシック候補の評価を受けることになった。
3歳となった翌2002年の春はハードなシーズンとなる。1月のシンザン記念(GⅢ)で重賞初勝利を挙げると、2月のアーリントンカップ(GⅢ)は2着に3馬身半差をつけて快勝。引き続き臨んだスプリングステークス(GⅡ)では後方14番手から直線一気の追い込みを見せてテレグノシスをクビ差抑えて勝利をもぎ取った。
ここからのタニノギムレットの進路はクロフネとは異なる。クロフネは皐月賞をスルーしたが、タニノギムレットは皐月賞に出走し、なおかつNHKマイルカップと日本ダービーという「変則二冠」、いや「変則三冠」に臨むというハードなローテーションが選ばれた。
そして勇躍、難事に臨んだタニノギムレットだったが、皐月賞とNHKマイルカップは1番人気に推されながら、惜しい競馬でともに3着に敗れる。前者は最終コーナーを回って直線へ向く際に大きく外へ振られる距離的ロスがあって0秒3差の敗戦(優勝はノーリーズン)。後者は、再び鞍上に名手・武豊を招いて必勝を期しながら、直線の勝負どころで進路が開かず、追うに追えない大きなロスがあって0秒4差のビハインド。能力は充分に勝てるだけのものを持ちながら、タニノギムレットには運が向いてはくれなかった。
しかし松田の信念は強く、タニノギムレットはハードなローテーションにもへこたれないタフさを持っていた。体調に問題がない、いやさらに調子を上げていた愛馬の状態を確認し、松田は同馬を日本ダービーへ向かわせることを敢然と宣言した。
迎えた日本ダービー。ファンはタニノギムレットを単勝オッズ2.6倍の1番人気をもって迎えた。そして彼は、その支持に圧倒的なパフォーマンスで応えた。ゲートが開くと後方の12番手を悠然と追走。その位置をキープしながら直線へ向き、ここで持ち前の爆発的な末脚を発揮。10頭以上をごぼう抜きにし、先に抜け出して粘り込もうとするシンボリクリスエスを差し切って1馬身差で優勝。春シーズンの強行軍のなかで、もっとも価値あるレースでその能力をすべて全開にすることができた。
日本ダービーについて、調教師の松田国英は初優勝。騎手の武豊は通算3勝目。オーナーの谷水雄三は初優勝だったが、2勝を挙げた父・信夫とともに親子制覇という偉業を達成した。
しかし、日本ダービーの大舞台がタニノギムレットのラストランとなってしまう。夏の休養と調整を経て栗東トレーニング・センターへ帰厩した彼は秋シーズンに向けてトレーニングが積まれていたが、9月1日のこと。調教後に脚部が熱を持っていることが発覚。すぐ検査を受けたところ、左前浅屈腱炎で全治6か月との診断を受け、秋の出走は絶望となった。
これを受けて関係者が協議した結果、種牡馬として生産地から大きな期待を寄せられていることなどから現役を引退し、種牡馬入りすることを決定。総額13億2000万円の大型シンジケートが組まれ、北海道・安平町の社台スタリオンステーションにスタッドインした。「変則二冠」制覇はならなかったが、松田が牡馬に寄せた高評価を受ける種牡馬の育成には成功したと言える。 GⅠ勝ちが日本ダービーのひとつだけのタニノギムレットを本稿に取り上げた理由は、種牡馬として1頭のスーパーホースを送り出したことにある。その特別な優駿とはGⅠレース7勝を挙げ、“史上最強牝馬“との呼び声も高いウオッカである。
カントリー牧場の生産、谷水雄三の所有で走ったウオッカは、タニノギムレットの初年度産駒。その名はカクテル「ギムレット」のベースとなる酒がウォッカであることから与えられた。
ウオッカは松田国英のもとで調教助手を務めた経歴を持つ角居勝彦の厩舎へ預託され、2006年の阪神ジュベナイルフィリーズでGⅠ初勝利を挙げる。そして当年のJRA賞最優秀2歳牝馬に選出されると、翌年には牝馬として64年ぶりの日本ダービー優勝の偉業を達成。これは同時に史上初となる父娘の二代制覇であった。ウオッカはその後、安田記念(2度)、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、ヴィクトリアマイルを次々と制覇。2008年と2009年の2度、JRA賞の年度代表馬に選出され、2011年には顕彰馬となった。
独自の理論をもって一時代を築いた松田国英のもとで「変則二冠」に挑み、日本ダービーを制したタニノギムレット。種牡馬となって、歴史的名馬のウオッカへカントリー牧場の“血”というバトンを渡すために生まれてきた、きわめて重要な傑馬と言えるのかもしれない。
そして、松田の「変則二冠」の夢は2004年、キングカメハメハによって達成されることになる。(文中敬称略)
文●三好達彦
【画像】長澤まさみ、見上愛、松本まりか、池田エライザ、倉科カナ、山本美月...全国の競馬場を盛り上げた“美人女優たち”を紹介!

