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六代目山口組 司忍組長が誓った「聖地奪還」

六代目山口組 司忍組長が誓った「聖地奪還」

 神戸市街が一望できる、六甲山の中腹に位置する霊園に到着すると、すでに墓所は掃き清められ、生花が供えられていた。そこに現れた司組長は、信奉する先達の墓前で、いったいどんな報告をしたのか─。

 山口組中興の祖・田岡一雄三代目の命日である7月23日、神戸市内の霊園に六代目山口組・司忍組長が墓参に訪れるという情報を入手した本誌は、同霊園に向かった。するとすでに兵庫県警本部の捜査員が数名待機しており、さらには大きなカメラを担いだテレビ局の取材クルーも現れた。あとは主役の到着を待つばかりとなった。

 午前11時半頃、秋良東力若頭補佐(秋良連合会会長)が姿を現し、墓所を最終チェック。ほどなくして、駐車場に1台の車両が滑り込んだ。降り立ったのは、鮮やかなブルーのシャツに白いストライプのジャケット、サングラスに白いパナマハットという出立ちの司組長だった。

 お付きの組員と秋良若頭補佐を伴い、田岡家の墓所に向かう。カメラを向ける報道陣に「暑いところ大変やな、気をつけてな」と労いの言葉をかけるなど穏やかな表情を見せた。

 しかし、司組長は墓前に立つと、表情を引き締める。墓石を水で清め焼香をしたのち、深く頭を垂れ、合掌し黙禱を捧げる。偉大な先達と実際に対面するかの如く、静かに佇む。わずかな時間ながら、そこは濃密な空気に満ちていた。

 地元関係者が語る。

「分裂後の17年まで、司組長は田岡三代目の命日墓参を欠かさず続けていたのですが、田岡家への配慮から同年秋に、隣接して建立されていた『山口組組碑』を山口組総本部内に移設、その後の祥月命日は総本部内で法要を営んでいました。ですが20年に特定抗争指定団体に指定され、総本部が使用できなくなってしまう。23年に一度、同霊園に足を運びましたが、昨年4月にようやく分裂抗争に区切りがつき、同7月にこの田岡三代目の墓前で『終戦報告』を行ったのです」

 司組長は同霊園を退去した後、昨年同様に、ほど近い距離にある渡辺芳則五代目の墓へも足を運び、さらに新神戸駅から新幹線で移動。姫路駅から車で同市内の竹中正久四代目の墓所を訪れ、祈りを捧げたという。前出・地元関係者が話す。

「ちょうど、墓参の直前にブロック会議で『総本部の修繕と清掃の要員を報告するように』と伝達があったばかり。公安委員会が特定抗争指定を外し、神戸市内にある総本部が警戒区域から解除される事態を想定しての措置なのは明らか。司組長の念頭には、そう遠くない将来の『帰還』があったのでは‥‥」

 かつて15年夏の分裂騒動に際し、司組長は田岡三代目の墓前にぬかずき、盃を交わした直参たちが起こした不始末を「不徳の致すところ」と深く詫びたと言われる。山口組事情に詳しいジャーナリストが言う。

「命日に限らず、山口組の節目に司組長は田岡三代目の墓所を訪れています。山口組にとって総本部は“聖地”とされ、みずから聖地奪還を遂げるという決意を伝えたかったのでしょう」

 現時点で敵対勢力は沈黙を貫くが、奇しくも同日、神戸山口組最高幹部の放免祝いが兵庫県内で開催されたとの情報もある。

 六代目山口組からの一方的な抗争終結以降、目立った事件は引き起こされていない。一部には、指定解除が今秋にも本格化するとの見方も浮上している。

 司組長の墓参は総本部への帰還をより印象づけるものとなった。

 組織の再出発を先達に誓った六代目山口組は、外交でも歩みを止めていない。

 7月17日、親戚団体の双愛会(千葉)の椎塚宣会長が誕生日を迎えた。

 この日、千葉県市原市の双愛会総本部には、椎塚会長の誕生日祝いのために同会組員が朝から集合していた。

 午前10時半頃、組員の「見えました!」の声が響き、2台の車が玄関前に停車する。降り立ったのは六代目山口組・佐藤光男若頭補佐(落合金町連合会長)、竹嶋利王幹部(二代目良知組組長)、直参の二代目浜尾組・浜田重正組長、四代目益田組・水島秀章組長の4名だった。

 一行は、双愛会最高幹部らの盛大な出迎えを受け、事務所内に招き入れられ、椎塚会長に祝辞を述べたという。そこには前日までに祝いの品として司組長から贈られた紅白一対の胡蝶蘭があったという。

 約20分の滞在で帰路についたが、退出の際も椎塚会長や最高幹部らと言葉を交わし、和やかなムードの中見送られた。

 終戦から1年余りを経た司組長と六代目山口組の視線は、業界全体の隆盛に向けられているようだ。

配信元: アサ芸プラス

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