
■エンジニアでスポーツマン。異色の経歴が推理小説向きだった
福山雅治、阿部寛、木村拓哉ら登板したスタアの名を出すまでもなく、映画化、ドラマ化の多い推理作家であった。シリーズもののみならず、単発の感動名作も数知れず。ミステリーの枠組みを平易に拡張する大らかな試みと文体が愛される要因だったし、映像メディアと相性がよかった所以だろう。
工学系の大学出身であり、売れっ子作家になる前はエンジニアだった。学生時代はアーチェリー部で、40代からスノーボードに夢中になったスポーツマン。つまり、アタマもカラダもキレキレなわけで、数学脳が必要な推理小説はうってつけのフィールドだったに違いない。
だが、東野が創り上げる意外性は、トリッキーではなかった。事件を解明するためには当然、理詰めにはなる。だが、犯人を追い込むのではなく、どのような“やむにやまれぬ”事情があったのか、その浮き彫りのさせ方に意外性があった。

■人それぞれが“どのように生きてそうなったか”を見過ごさない
特異な殺人を描くのではなく、犯罪の背景にある特別な人間模様を見つめる。逆に言えば、どんなに平凡に見える人物にも、その人だけの人生があることを指し示す。“やむにやまれぬ”決断がどのように生まれたか、その道筋を照らしだす。だから断罪はしない。しかし人情に傾いた感涙系でもない。どこかドライでモダンだが、それは人それぞれが“どのように生きてそうなったか”を見過ごさないためでもある。

つまり、現代の言葉で言えば多様性だ。人はそれぞれに特別な存在だが、時に選択を誤ってしまう。決してそれを肯定するわけではないが、罪も失敗も挫折も落伍も全部、固有のものとして取り扱う。それもまた特別な人生なのだ。

■東野圭吾の描写が極めて映像的だった「真夏の方程式」
膨大かつ多岐にわたる作品群から具体例を挙げることはためらわれるが、第48回吉川英治文学賞に輝き映画化もされた「祈りの幕が下りる時」には、娘のために亡霊として生きる父親が登場する。秘密を護るためには“そうするしかなかった”と体感させる人物像の造形と筆致の深度。

なぜ映像化が多かったのか。さらに具体的に考えるなら、東野の描写が極めて映像的であることに行き当たる。小説「真夏の方程式」と映画『真夏の方程式』(13)を較べてみよう。キーパーソンであり物語の主人公でもある少年、柄崎恭平が、生まれて初めての一人旅で伯父と伯母が営む海岸町の旅館に向かう電車内で“ガリレオ”こと湯川学と出逢う。

この序章が、単に詳細というより、読み手の情感を“開発”する映像性に満ちており、さらに流れている。映像において重要なのは、この流れる感覚であり、若い頃は映画監督になることも夢想したという東野には、そのセンスが宿っているのだろう。つまり東野の小説は、映像を誘発するのだ。映画版の監督は福山の「ガリレオ」シリーズを永らく務める西谷弘だが、小説を読んだ時の印象が鮮やかに可視化されていて、そのことに感動する。
さらにラストシーン。今度は駅舎での恭平と湯川の別れの場面だが、小説の次の台詞が使われ、福山が万感の名演を見せる。
「今回のことで君が何らかの答えを出せる日まで、私は君と一緒に同じ問題を抱え、悩み続けよう。忘れないでほしい。君はひとりぼっちじゃない」

映画の完成後、東野圭吾と福山雅治の対談に立ち会う機会があった。東野は、ある時から福山の声を思い浮かべながら「ガリレオ」を書いている、と微笑んだ。
忘れないでほしい。君はひとりぼっちじゃない――これは、稀代の小説家から、私たち読者に贈る言葉でもあるように思う。
文/相田冬二
