
マッコウクジラのオスは、ときおり「刑務所の鉄扉が閉まるような音」と表現される、低く金属的なクリック音を響かせます。
新たな研究で、この「スロークリック(slow click)」が、既知の動物のコミュニケーション音の中でも極端に強く、最大で約70キロメートル先まで届く可能性があることが示されました。
しかもこの音は、獲物を探すエコーロケーション用のクリックとは別物で、オスだけが非常にゆっくり、しかも驚くほど正確なリズムで発しているようです。
研究の詳細は、デンマークのオーフス大学(Aarhus University)により、2026年5月18日付で学術誌『Annals of the New York Academy of Sciences』に掲載されています。
目次
- 「5トンの鼻」から放たれる226デシベルのクリック
- 5~10秒おきの「超スローテンポ」は何を伝えている?
「5トンの鼻」から放たれる226デシベルのクリック
マッコウクジラ(Physeter macrocephalus)は、最大で体長18メートルほどになる世界最大のハクジラ類です。
深海ではダイオウイカなどを探すため、強烈なクリック音を発してエコーロケーションを行います。
また仲間同士の社会的なやり取りでは、「コーダ(coda)」と呼ばれる短いクリック音のまとまりも使います。
ところが、オスだけが発すると考えられているスロークリックは、そのどちらとも性質が違っていました。
研究チームはセーシェル、スリランカ、ノルウェー、スコットランドで得られた録音データを解析し、セーシェル沖ではハイドロフォンとクジラまでの距離測定を組み合わせて音の強さを推定しました。
約30分間に記録された65回のスロークリックを分析したところ、最も強いものは、音源から1メートルの位置に換算して226dB re 1 µPa(デシベル・リラティブ・トゥ・1・マイクロパスカル)に達しました。
これは水中音響で使われる尺度であり、空気中のジェット機やロックコンサートのデシベル値とは直接比較できません。
それでも水中では非常に強力な音で、チームは「動物が発するコミュニケーション音として最高レベル」と説明しており、論文では特に哺乳類でこれまで測定された中でも最大級のコミュニケーション信号と位置づけています。
実際の音声サンプルはこちらでご視聴いただけます。

これほど大きな音を作れる秘密は、マッコウクジラの巨大な頭部にあります。
オスの鼻部には、成体で5トンを超えることもある巨大な発音システムがあり、その内部には「発音唇(phonic lips)」と呼ばれる構造があります。
ここに圧力をかけた空気を通し、発音唇を打ち合わせることで強烈なクリック音が生まれます。
さらにチームが音の伝わり方をモデル計算したところ、典型的な深海環境ではスロークリックが最大約70キロメートル先まで検出できる可能性が示されました。
ただし、70キロメートル離れたクジラが実際に音を聞いて反応したことを確認したわけではありません。
実際の到達距離は、水温や塩分、水深、海底の状態、背景雑音、船舶騒音などによって大きく変化します。
5~10秒おきの「超スローテンポ」は何を伝えている?
スロークリックのもう1つの奇妙な特徴は、そのリズムです。
通常のコーダに比べてはるかに遅く、クリックとクリックの間には5~10秒ほどの間隔が空くことがあります。
それにもかかわらず、オスたちは極めて正確に一定のテンポを保っていました。
人間でも、数秒おきに同じ間隔で手を叩き続けるのは簡単ではありません。
そこで研究者らが提示したのが、海底から返ってくる反響音を「ストップウォッチ」のように使っている可能性です。
強いクリックが海底まで届いて反射し、そのエコーが数秒後に戻ってきたタイミングを、次のクリックを出す手がかりにしているのではないかというのです。
ただし、これは今回確認された事実ではなく、現時点では仮説です。
また、なぜオスだけがこの音を発するのかも分かっていません。
研究者らは、大きなオスほど巨大な鼻部を持ち、より低い周波数の音を出せる可能性があることから、スロークリックが体の大きさを正直に示す「正直な広告(honest advertisement)」として働いている可能性を挙げています。
つまりメスに対する「大きなオスがここにいる」というアピールや、ライバルのオスへの威嚇に使われているのかもしれません。
しかし、受け手のクジラがどう反応するかはまだ調べられていません。
チームは今後、水中スピーカーからスロークリックを再生し、オスやメスが近づくのか、離れるのか、自らクリックを返すのかを確かめる再生実験を計画しています。
マッコウクジラのスロークリックについて、今回確実に分かったのは「非常に大きい」「非常に遠くまで届き得る」「非常に遅いのに正確なリズムを持つ」ということです。
その音が求愛なのか、威嚇なのか、それとも私たちがまだ想像していない役割を持つのかは分かりません。
深海を数十キロメートルも進む巨大なクリック音は、マッコウクジラが広大な海をどのように「通信空間」として利用しているのかを解き明かす、新たな手がかりになりそうです。
参考文献
‘Like a jail door slamming’: Male sperm whales’ mysterious rhythmic clanging is the loudest communication sound of any animal
https://www.livescience.com/animals/whales/like-a-jail-door-slamming-male-sperm-whales-mysterious-rhythmic-clanging-is-the-loudest-communication-sound-of-any-animal
The world’s most powerful clickbait?
https://www.eurekalert.org/news-releases/1138542
元論文
Extreme Rhythm Keeping in Long-Range Slow Click Communication of Sperm Whales
https://doi.org/10.1111/nyas.70289
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部

