
生き物は危険が迫れば逃げようとします。
ところが、オーストラリアに生息するセアカゴケグモ(Latrodectus hasselti)のオスは、交尾中に自ら体を反転させ、腹部をメスの牙の前へ差し出し、交尾後はそのままメスに食べらてしまいます。
それはまるで生存本能に逆らって「死を選んでいる」ようにも見えます。なぜ彼らはこんな奇妙な行動を取るようになったのでしょうか。
この奇妙な行動を理解する上で重要なのは、オス自身が死の意味を理解して犠牲を選んでいると考えるのではなく、どのような行動が繁殖において有利に働き、遺伝して残りやすかったのかを見ることです。
そこでドイツのハンブルク大学(University of Hamburg)のカルデレン・オズギュン・ウルダー(Kardelen Özgün Uludağ)氏らは、この「食べられに行く」ような行動がどのように遺伝するのかを、自己犠牲をしない近縁種との交配実験によって調べました。
その結果、この一見複雑な自己犠牲行動は、独立して働く2つの遺伝的行動が、組み合わさって成り立っていることがわかりました。
そして特に、メスの牙に腹部を向けて共食いにつながる「交尾中の宙返り行動」は、驚くほど単純な遺伝パターンで受け継がれていたのです。
この研究の詳細は、2026年8月に科学誌『Biology Letters』に掲載されています。
目次
- なぜオスは「食べられる」のに逃げないのか?
- 意外にも単純な遺伝と自然選択だった可能性
なぜオスは「食べられる」のに逃げないのか?
セアカゴケグモの交尾は、私たちが普通に想像する繁殖行動とはかなり違っています。
オスは交尾して精子を送り込んでいる最中に、腹部を大きく持ち上げて反転する「交尾宙返り」を行います。
その結果、腹部の後方がメスの口元へ運ばれ、メスがオスを噛み、食べてしまうのです。
普通に考えれば、これは生存本能に逆らうような奇妙な行動に見えます。
オスは生き残れば、別のメスと交尾できる可能性があるのだから、他の繁殖の機会を捨てて、わざわざ最初の交尾で死を選ぶ意味はよくわかりません。
しかしセアカゴケグモのオスにとって、「ここで逃げて、次のメスを探せばいい」という選択肢は、それほど有望ではありません。
過去の野外研究では、セアカゴケグモのオスの80%以上は交尾相手となるメスを見つける前に死亡しており、彼らが一生のうちに期待できる交尾の機会は平均1回未満と推定されています。
つまり、セアカゴケグモのオスにとっては、ようやく見つけた1匹のメスとの交尾からできるだけ多くの子を残すことが、結果として自分の遺伝子を次世代へ残しやすい状況にあるのです。
とはいえ、なぜわざわざ食べられるのか、というのは不思議な点ですが、これまでの研究によると共食いが起きた場合に交尾時間が伸びることが明らかになっています。
実際観察によると、共食いされたオスでは交尾時間の中央値が25分だったのに対し、共食いがなかった場合は11分でした。
なぜ共食いで交尾時間が伸びるのかはよくわかっていませんが、メスが交尾中にオスの腹部を噛み、食べることに夢中になっている間、交尾が中断されにくくなるのではないかと考えられています。
さらに共食いには、もう1つ大きな利点があります。
最初のオスを食べたメスは、その後に現れた別のオスとの交尾を拒みやすくなるのです。過去の実験では、最初のオスを食べたメスの67%が次のオスを拒んだのに対し、食べなかった場合はわずか4%のメスしか新しいオスを拒みませんでした。(なぜこうなるのかはよくわかっていません)
つまりオスにとって交尾中に共食いされることは、交尾時間の延長と、その後に別のオスに割り込まれる可能性まで低くなるという2つの繁殖上の利益があるようなのです。
さらに興味深いのは、セアカゴケグモのオスが単純に「死ぬことを受け入れている」わけでもないことです。
オスは交尾前の求愛中から、腹部の中央付近を強くくびれさせる「腹部収縮」という行動を起こします。
メスは交尾の際、主にこのくびれより後ろ側の腹部を噛みます。過去の実験では、同じようにくびれの後ろ側に人工的な傷つけたオスは生存期間が伸びることが確認されています。
なぜ腹部収縮によって生存期間が伸びるのかは完全には分かっていませんが、傷を負った後も体の前方に必要な体液圧を保ったり、重要な器官を傷つきにくい前方へ寄せたりしている可能性が考えられています。
いずれにせよ、セアカゴケグモのオスはひっくり返って牙の前に腹部を差し出すという自分が食べられるような行動を取りつつ、延命行動も同時に取っているのです。
この理由は、交尾時間を長く保つためだと考えられます。
セアカゴケグモのメスには精子を保存する器官が2つあり、オスは2回に分けて交尾することで、その両方に精子を送り込むことができます。
そのためオスは二回戦を終えるまで死なないために、腹部収縮という延命処置をしていると考えられるのです。
つまりセアカゴケグモのオスはメスに噛まれやすい姿勢を取りながら、同時に、2回の交尾を完了する前に死なないための性質まで備えているのです。
生存本能というと単純に生き延びるための本能と捉える人が多いかも知れませんが、生物学的には繁殖の機会をより多く得るため行動と解釈できます。
その意味で言うと、セアカゴケグモのオスはちゃんと生存本能も働かせていると言えるでしょう。
では、この非常に複雑な自己犠牲を伴う交尾行動は、どのようにして進化したのでしょうか?
意外にも単純な遺伝と自然選択だった可能性
この疑問を調べる上で研究者たちが利用したのが、ニュージーランドのカティポ(Latrodectus katipo)というセアカゴケグモの近縁種です。
カティボは約10万年にセアカゴケグモと枝分かれしたかなり近い種ですが、交尾行動は大きく異なります。
セアカゴケグモではオスが交尾中に宙返りして、メスによる共食いが起こります。
一方、カティポでは、オスは交尾中に宙返りなどせず、また腹部収縮も起こさず、メスによる交尾中の共食いも起きません。
そして、興味深いのがこの近縁の二種で交尾をさせた場合です。
セアカゴケグモのオスをカティポのメスと交尾させると、オスはいつも通り腹部収縮を起こし、交尾中に宙返りをするのです。
相手のカティポのメスはオスを食べないにもかかわらず、オスは延命行動しつつ腹部をその口元へ差し出すのです。
そのためセアカゴケグモのオスが宙返りや腹部収縮をするのは、自分がこれからすることの意味をわかってやっているわけではなく、遺伝的な性質から起きている行動だとわかります。
ではその遺伝子はどのように継承されるのでしょうか?
これを確かめるため研究チームはまず、カティポのメスとセアカゴケグモのオスを交配させて雑種のメスを作りました。
さらにその雑種メスを、セアカゴケグモまたはカティポのオスと再び交配させる「戻し交配」を行い、さまざまな遺伝的組み合わせを持つオスを誕生させました。
そして得られたオスを、共食いをしないカティポのメスと交尾させました。相手をカティポにするのは共食いされずに何度も交尾の様子を観察するためです。
実験では228回の交尾試験が行われ、そのうち交尾に成功した104匹の戻し交配オスについて行動が分析されました。
研究者たちが事前に立てていた仮説は、宙返りと腹部収縮の2つの行動が同じX染色体上で密接につながった遺伝領域によって制御され、セットで受け継がれるというものでした。
この2つの行動はセットでなければ意味がないため、一緒に継承されていく性質だと考えていたのです。
ところが結果は、この予想を支持しませんでした。
交尾宙返りと腹部収縮は頻繁に別々に現れ、この2つの行動は密接に連鎖していないことがわかったのです。
さらに大きな発見が、交尾宙返りはかなり単純な遺伝パターンの可能性が示されたことです。
研究チームが交配によって生まれたオスたちを調べると、「宙返りをする個体」と「しない個体」は、複雑に入り混じるのではなく、かなり単純な遺伝のルールに従って現れていました。
この出現パターンは、もし宙返りに関わる遺伝情報がX染色体上の1つの領域にあると考えると一致するようなパターンでした。
つまり、メスの牙へ腹部を差し出すという一見自殺行為のように見える行動が、X染色体上のごく限られた遺伝的領域の違いによって「する・しない」に分かれている可能性が示されたのです。
ただ、これは宙返りが単一の遺伝子という意味ではありません。研究者たちは、該当するX染色体上の領域に複数の遺伝子がまとまった「スーパー遺伝子」が存在する可能性も残しています。
なぜ共食いされるという進化が起きるのか?
進化については、人によって説明の仕方が異なりますが、生物の戦略という考え方はあまり適切ではありません。
生物自体には将来を予測する意思も、目標もないからです。
たとえば祖先集団の中に、遺伝的な違いによって交尾中の姿勢や動きが少し異なるオスが存在し、その中で特定の行動をするオスが、結果的に多くの子を残したとします。
すると、その行動に関係する遺伝的要因は次世代へ伝わりやすくなります。
これが何世代も繰り返されれば、最終的にその行動は、その種にとっての普通の行動になります。
セアカゴケグモの場合、そもそも共食いされる進化をしたというより、交尾中ひっくり返るという行動が結果的に自分の子供を残しやすかったために徐々に種に広まり、そこに腹部収縮という行動も合流していったと言えるのでしょう。
私たちはつい、複雑な行動には必ず複雑な遺伝的仕組みが必要だと考えてしまいます。
しかし今回の結果は、動物の行動が大きく変化するために、必ずしもゲノム全体にわたる大量の変化が必要とは限らないことを示しています。
ただし、まだ最大の謎が残っています。
今回明らかになったのは「宙返りするかどうか」がどう遺伝するのかというパターンの部分です。具体的にどの遺伝子が、どの神経回路を通じてオスを宙返りさせているのかは分かっていません。
まして、交尾中に危険が迫っても逃げずにメスの牙へ体を差し出すとき、通常の逃避行動が神経系でどのように扱われているのかも今回の研究対象ではありません。
研究チームも、今後はゲノム解析によって実際に関与する遺伝子と染色体上の位置を特定する必要があるとしています。
今回の研究が見せてくれるのは、機械的で、それゆえに不思議さを感じる進化の姿です。
ある行動を生み出す遺伝的性質が、結果としてより多く次世代へ受け継がれるなら、その行動が個体の死につながるものであっても自然選択によって残っていくことになるのでしょう。
元論文
Crossing experiments suggest a simple genetic basis of complex male self-sacrifice phenotypes in widow spiders
https://doi.org/10.1098/rsbl.2026.0211
ライター
朝井孝輔: 進化論大好きライター。好きなゲームは「46億年物語」
編集者
ナゾロジー 編集部

