
「マラドーナになる必要はない」逝去したメッシの父ホルヘの知られざる素顔。アルゼンチン代表で息子が批判された時には…
リオネル・メッシの父、ホルヘ・メッシが、故郷アルゼンチンのロサリオで、68歳で亡くなった。
長い闘病生活の末だった。家族の意向もあり、詳しい病状や死因は最後までほとんど明かされなかった。それは、ある意味でホルヘらしい最期だったのかもしれない。私はかなり昔から個人的な付き合いがあったが、いつも寡黙な男だった。
息子のリオネルを傷つけた人間について語る時さえもそうだった。アルゼンチンのメディア、バルセロナの幹部、そしてパリ・サンジェルマンの関係者たち。息子が理不尽な扱いを受けたと感じていた時でさえ、彼は誰かを名指しして激しく批判することはほとんどなかった。短い言葉だけを残し、それ以上は話さない。
その姿は、息子によく似ていた。口数が少ない。感情を大げさに表に出さない。そして莫大な富を手にしてからも、それを見せびらかそうとはしなかった。
世界中が「メッシ」を知るようになった後も、ホルヘ自身は驚くほど変わらなかった。だが、その静かな男こそ、リオネル・メッシというサッカー選手を最初から最後まで作り上げた最大の存在だった。
ホルヘはロサリオの鉄鋼会社アシンダールで品質検査の技術者として働いていた。時には12時間勤務もこなした。若い頃にはニューウェルズ・オールドボーイズの育成年代でサッカーをしていたが、兵役をきっかけに競技を離れ、仕事と家族の道を選んだ。
そんな父親が、幼いリオネルの才能に誰よりも早く気づいた。4歳の息子を地区クラブ、アバンデラード・グランドリへ連れて行き、後には自らチームの監督まで務めた。リオネルには普通の子供とは違うものがあった。上手いだけではない。いつでもボールを触りたがり、独特の動きで相手をかわし、サッカーそのものに取りつかれているようだった。
ただその才能より先にリオネルの前に立ちはだかったのが、成長ホルモンの問題だった。治療には毎月多額の費用が必要だった。ホルヘは、息子が治療を続けながらサッカー選手として成長できる場所を探し始めた。そして2000年、13歳のリオネルを連れて大西洋を渡った。
バルセロナでの生活は決して華やかなスタートではなかった。母セリアと他の子供たちはロサリオへ戻り、スペインには父と息子だけが残った。海を渡ったもののクラブが本当にリオネルを獲得するのか、その治療を引き受けるのか、何の保証もない日々だった。後にリオネルは、当時の父について印象的な話をしている。家に戻ると、ホルヘは息子に見えない場所へ行って泣いていた。リオネルも、父を心配させまいと隠れて泣いていた。ふたりとも相手に弱さを見せなかった。それもまた、よく似た父と息子だった。
やがてバルセロナとの契約が決まり、リオネルの人生は大きく動き始める。そして同時に、ホルヘの人生も変わった。彼は「サッカー少年の父親」から、世界最高の選手の代理人になった。しかも、ただの代理人ではない。ホルヘはリオネルにとって、事実上ただひとりの代理人だった。
世界中の巨大エージェントや有力代理人がメッシに近づこうとしたが、彼のキャリアを動かしたのは最後まで父親だった。バルセロナとの契約も、スポンサーとの交渉も、パリSGへの移籍も、インテル・マイアミへの移籍も。表舞台に大勢の人間がいたとしても、その中心には常にホルヘがいた。アディダスとの生涯契約もそうだった。世界最高峰の選手にとって極めて大きな商業契約だったが、ホルヘはそれを大々的に語ろうとはしなかった。静かに交渉し、静かにまとめた。それが彼のやり方だった。
ホルヘにはブラジルへの特別な親しみもあった。彼はブラジルという国、そしてブラジルサッカーを好んでいた。バルセロナ時代、ネイマールをリオネルに最初に紹介した人物のひとりもホルヘだった。その後、ネイマールがパリSGへ向かう際にも、その移籍を後押しした。メッシ家の中にも、そのブラジルへの親近感は残った。リオネルの長男につけられた「チアゴ」というブラジル風の名前も、ホルヘの勧めによるものだったという。
しかしホルヘの存在が最もはっきり表れたのは、華やかな契約交渉ではなく、息子が苦しんだ時だった。アルゼンチン代表でリオネルが激しく批判された時もそうだった。2011年のコパ・アメリカでは、ホームの観客からブーイングを浴び、「バルセロナでは活躍できるのに、なぜアルゼンチンではできないのか」と責められた。
マラドーナと比較され、「代表を率いる人格がない」とまで言われた。ホルヘは息子を守った。ただし、感情的にメディアを攻撃したわけではない。代表のプレーが悪いことは認めた。批判する権利も認めた。そのうえで、批判がひとりの人間への攻撃へ変わることには異議を唱えた。
「リオネルはマラドーナではない。マラドーナになる必要もない」
彼が言いたかったのは、そういうことだった。
2016年、コパ・アメリカ決勝でチリに敗れた後、リオネルは代表引退を表明する。その時もホルヘは表に出なかった。まず息子の決断を支え、そして新監督エドガルド・バウサとの話し合いに関わった。やがて息子は代表へ戻る。そしてアルゼンチンは世界王者となった。それを考えると、あの時にホルヘが果たした役割の大きさがわかる。
クラブキャリアでも同じだった。バルセロナを離れる時、パリSGとの関係に疑問を持った時、サウジアラビアから巨額のオファーを受けた時。そしてインテル・マイアミを選んだ時。最後の判断を下す場所には、いつも傍らに父親がいた。
マイアミ移籍の交渉は何年にも及び、バルセロナ、ロサリオ、マイアミ、ドーハなどで秘密裏に続けられた。デイビッド・ベッカムやホルヘ・マスらと話し合い、最終的にリオネルはバルセロナでもサウジアラビアでもなく、アメリカを選んだ。おそらくそれが、父と息子が一緒に行なった最後の大きな仕事だった。やがてホルヘは病に倒れた。
2026年ワールドカップでは、いつものように息子のそばへ行くことができなかった。リオネルには長年の習慣があった。試合が終わると、父親からの連絡を待つ。いいプレーをしても、悪いプレーをしても、ホルヘは必ず何かを言ってくれた。褒めるだけではない。少年時代と同じように、何かひとつ直すところを見つける。そのメッセージが届かなくなった時、リオネルは父親の病状がどれほど深刻なのかを理解したという。
ホルヘが亡くなった後、レオは父について、「父であり、友人であり、代理人だった」と自身のSNSに書いた。そして試合の後には、いつも父親の意見を待っていたとも。それはおそらく、彼らの関係を最もよく表す言葉だ。彼はリオネルの最初の監督であり、唯一の代理人であり、最も厳しい批評家であり、最も信頼する相談相手だった。
ホルヘ・メッシはスターではなかった。そうなろうとしたこともなかった。カメラの前に出ることを好まず、世界一有名なサッカー選手の父親であることを利用して主役になろうともしなかった。ただ、息子の後ろにいた。
バルセロナの入団テストでコーチが「ワンタッチでプレーしろ」と言った。その時、ホルヘは息子に別の言葉をかけた。
「自分のサッカーをしろ」
彼はいつもそうだった。周囲が何を言おうとも、最後には息子を信じた。そして本当に必要な時だけ、一歩前へ出た。
世界のサッカー界にとって、ホルヘ・メッシは「リオネル・メッシの父親」だ。しかしリオネルにとっては、それよりはるかに大きな存在だった。
世界は「メッシ」という選手が生まれるところを見た。
しかしホルヘは、そのずっと前から、そして息子が「メッシ」になった後も、ずっと「リオネル」という少年を見ていた。
ホルヘがいなければ、サッカー界にリオネル・メッシは存在したかなったのだ。
文●リカルド・セティオン
翻訳●利根川晶子
【著者プロフィール】リカルド・セティオン(Ricardo SETYON)/1963年8月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。ジャーナリストとして中東戦争やユーゴスラビア紛争などを現地取材した後、社会学としてサッカーを研究。スポーツジャーナリストに転身する。8か国語を操る語学力を駆使し、世界中を飛び回って現場を取材。多数のメディアで活躍する。FIFAの広報担当なども務め、ジーコやカフー、ドゥンガなどとの親交も厚い。現在はスポーツ運営学、心理学の教授として大学で教鞭も執っている。
【画像】メッシが投稿した亡き父との思い出の写真
【記事】「マジでえぐいな」C・ロナウドの婚約者が魅せた“大胆すぎるゴルフウェア”姿に脚光!「すんごい迫力だ」「怒られたりしないの?」
