一人の高校生が「怪物」となった1998年―この夏は松坂大輔のものだった。桁外れであり続けることを課せられた重圧。松坂だけが世代を牽引したのではなく、のちの球界で輝く黄金世代の中で怪物はシノギを削っていたのだ。最後の「昭和的カリスマ」たちの軌跡を振り返ろう。
世代名とは、つくづく不公平なものだ。同じ年度に生まれたというだけで、何十人もの選手が一人の名前の下にまとめられる。
「松坂世代」という呼称は、後から実績を比較して決まったのではない。和田毅も杉内俊哉も藤川球児も村田修一も、まだプロで何者にもなっていなかった頃から、1980年度生まれは松坂大輔の世代だった。
それは名誉であると同時に、本人にとっては逃げ場のない役割でもあった。松坂はただ速い球を投げるだけでは足りない。高校野球の英雄であり、プロ野球の怪物であり、日本代表のエースであり、海を渡れば日本野球そのものの値打ちまで証明しなければならなかった。
昭和55年に生まれ、平成に「怪物」となった男。その歩みをたどると、松坂世代が最後の「昭和的カリスマ」の集団に見えてくる。そこでのスターとは、優れた個人ではない。時代の期待を一身に引き受け、結果が出ても出なくても、物語の中央から降りることを許されない存在だった。
世代というものは、ふつう、後から輪郭を持つ。何年かたって、同じ学年から名選手が何人も現れた時、「あの世代はすごかった」と語られ、呼び名がつく。だが、松坂世代は順序が逆だった。まず松坂大輔という名前が時代を占領し、その巨大な名の下に、同級生たちが集められていった。
そんな松坂に対し、横浜高校の野球部長・コーチとして指導した小倉清一郎は、「サボりのマツ」「一番風呂のマツ」と呼んでからかっていた。「下級生時代は練習嫌いでね。3年生になっても、練習をあがるのが早いんだ。おれが戻ってくると、もう風呂から出てきやがる」とも。これに対し松坂本人も、「寮の風呂で小倉コーチと一緒になると、ストレッチさせられたりして長くなるから、先に入っちゃうんです」と屈託なく笑っていた(2021年7月7日・朝日新聞)。
98年夏の甲子園は、強豪・横浜高校の優勝物語であると同時に、一人の高校生が国民的な記号へ変わっていく過程でもあった。準々決勝のPL学園戦で延長17回、250球を投げ切る。翌日の明徳義塾戦では投手から外野に回り、6点差をひっくり返した終盤に救援登板。そして、京都成章との決勝ではノーヒットノーランを達成し、横浜を春夏連覇へ導いた。3日間の出来事だけを並べても、現実というより少年漫画の最終巻に近い。
特にPL学園戦に対し、松坂本人は「前の夜、2時間ぐらいしか寝られなかった。第1試合だから4時起き。監督から『睡眠薬いるか?』と聞かれたけど、もらわなかったんで」と打ち明ける。「PL戦ということで気持ちが高ぶったのかな。寝不足で、球場へ移動するバスで寝ちゃったんです。試合前のブルペンで体が動かなくて、やばいなと思った。そういうスキを見せてはいけないチームでしたね、PLは」と話した(同前)。
もっと異様だったのは、その中心にいた松坂が、悲壮感をあまり表に出さなかったことだ。力投を大げさに演出せず、追い込まれてもマウンドで感情を爆発させない。大仕事を終えた姿にさえ、「当然のことを済ませた」ような平静さがあった。観客はそこに、単なる高校生ではない何かを見た。苦しげに耐えるヒーローではなく、こちらの常識が通じない怪物。松坂のカリスマは雄弁さではなく、何を考えているのか簡単には読ませない静けさから生まれた。
もちろん、横浜は松坂一人のチームではなかった。攻守に完成度が高く、強い仲間がいたからこそ連覇は可能だった。それでも人々の記憶は、集団の勝利を「松坂の夏」へと編集した。横浜が勝ったのではなく、松坂が勝った。横浜が苦境を脱したのではなく、松坂が戻ってきた。チームスポーツの結果が、一人称で語られるようになったのである。
この瞬間から、彼はただのエースではなくなった。「平成の怪物」という称号は最大級の賛辞だったが、同時に、普通の高校生へ戻る道を閉ざす言葉でもあった。
打たれてもニュース、休んでもニュース、投げれば歴史。怪物とは、能力が桁外れな選手のことではない。人々から「桁外れであり続けること」を要求される選手のことだ。松坂大輔が背負った「個」の重圧は、あの決勝で最後の打者を打ち取った瞬間から始まった。
ゴジキ:野球評論家・著作家。「データで読む甲子園の怪物たち」(集英社新書)ほか著書多数。「マネジメント術で読むプロ野球監督論」(光文社新書)が重版出来。発売前から重版となった最新刊「システムで読む甲子園」(カンゼン)が絶賛発売中。Yahoo! ニュースエキスパート。

