もちろん、身体は物語どおりには動かない。レッドソックス後半の松坂は故障に苦しみ、11年には右肘のトミー・ジョン手術を受けた。華々しかった最初の2年に対し、ボストンでの最後の4年間は登板回数も投球回も減った。怪物という言葉は、調子のいい時には翼になるが、投げられない時には過去の自分を毎日連れてくる重りになる。
日本復帰後も、その重りは消えなかった。ソフトバンクでは3年間で一軍登板が1試合にとどまった。批判は厳しく、「もう松坂ではない」という視線にもさらされた。それでも現役を続け、中日に移った18年には6勝を挙げ、カムバック賞を受賞した。全盛期なら6勝は不本意だっただろう。
だが、投げられない時間を知った後の6勝は、16勝とは別の価値を持っていた。怪物が再び怪物になったのではない。一人の投手が、怪物という看板の外側で勝つ方法を見つけたのである。
この復活で、ファンが松坂を見る目も少し変わった。かつては圧倒することを期待し、勝利を当然とした観客が、一軍のマウンドに立つこと自体を喜んだ。速球の数字より、一つのアウトに拍手が起きる。そこにはスターの格が下がった寂しさではなく、同じ時代を生きた人間の帰還を迎える温かさがあった。「怪物を見たい」という欲望が、「松坂にもう一度投げてほしい」という願いへ変わったのである。
松坂の故障を、高校時代の250球やプロでの完投数だけに結びつけることはできない。選手の身体に起きることは、そんな単純な因果関係では説明できないからだ。
ただ、彼の投球歴を眺めれば、時代が理想としたエース像を、その右腕が長く引き受けたことだけはわかる。投げられるなら投げる。頼まれれば登る。注目が集まるほど逃げない。その美学は彼を大投手にし、同時に身体へ膨大な請求書を回した。
21年、41歳で引退を決めた時、松坂はブルペンで大きく抜けた一球をきっかけに、ボールを投げることへの怖さを感じたと明かした。最後まで残ったのは、球速の低下よりも、指先の感覚を失う恐怖だった。引退セレモニーでは、投げられなくなるまで野球を続けられたことへの思いを語った。勝てなくなったから辞めたのではなく、投げるという行為そのものが成立しなくなる場所まで行ったのである。
やがて和田毅が24年限りで現役を退き、NPBから最後の松坂世代が去った。振り返れば、この世代は決して松坂一人ではなかった。和田も杉内も藤川も村田も、それぞれの方法で松坂という巨大な入り口を押し広げ、「松坂世代」を複数形の物語に変えた。
それでも、入り口に立ち続けた男の重圧は特別だった。松坂大輔は、世代を代表したのではない。世代そのものとして見られた。最後の昭和的カリスマとは、古い根性論を無条件に美化する言葉ではない。全国の期待が一人に集中し、その人物が沈黙したまま受け止めることを当然とされた時代のスターを指す。
松坂は、その重さから逃げなかった。いや、逃げる方法を与えられなかったのかもしれない。だから彼の偉大さは、日米の勝利数や奪三振数だけでは測れない。18歳の夏から41歳の最後の一球まで、「松坂大輔であり続けること」を投げ抜いた。その長い完投こそが松坂世代という言葉に、いまも独特の熱を残している。
ゴジキ:野球評論家・著作家。「データで読む甲子園の怪物たち」(集英社新書)ほか著書多数。「マネジメント術で読むプロ野球監督論」(光文社新書)が重版出来。発売前から重版となった最新刊「システムで読む甲子園」(カンゼン)が絶賛発売中。Yahoo! ニュースエキスパート。

