華やかなブレイクの裏で進行していた病を抱えつつも、それでもなお舞台に立ち続ける理由とは何か。仕事と病気とともに歩んできた30年余りを、コージー冨田氏本人の言葉でたどる。
◆服の色はわかるが、表情は認識できない

コージー冨田(以下、コージー):紺色の服を着ているのがかろうじてわかるくらいで、表情などは一切わからないです。もう少し離れて2~3メートルくらい先になると、動かなければ人間だと判別できません。すごく曇りが濃い磨りガラス越しに見ているような感覚ですね。
――’25年に糖尿病や視力低下を公表したのはなぜでしょうか。
コージー:もう見えないし、事情を知ってもらったほうがいいかなと思って事務所と相談して公表しました。でも普通にステージやるから、たまに「本当に見えてないの?」って言われますよ(笑)。それはリハーサルと周りの協力のおかげですけどね。
――公表後の変化はありましたか?
コージー:心配されることは増えましたけど、最終的にはみんな普通に笑ってくれるのは変わらないですね。それが一番いい形だと思っています。
――笑いとの距離感も難しそうです。
コージー:難しいですよ。僕の芸で笑うのはいいけど、病気で笑うのは違う。ただ、笑わせる仕事なんで、そこはちゃんとやらないといけないのが難しいですね。
◆タモリものまねで“ドカン”と売れた2000年前後
――コージーさんが世に出たきっかけは、いつ頃だったのでしょうか。コージー:’00年にテレビ朝日で放送されたものまね番組ですね。渡辺徹さんが司会の番組で、そこでタモリさんのものまねをやったんですよ。
その番組で「笑っていいとも!」にいいとも青年隊として出ていた野々村真さんとマンション久保田さんが出演されていて、「いいとも!」の流れをやったら、お二人から「タモリさんに似てますねぇ」と褒めていただきました。
――一番近くで見ていた人にお墨付きを貰えたのは嬉しかったんじゃないですか?
コージー:嬉しかったですね。出番が終わった後は審査員席の後ろに座っていたんですが、渡辺徹さんから島田紳助さんや板東英二さんなどのものまねを振っていただいたんです。
そのフリを全部野々村真さんに絡めて、紳助さんのときは「真、お前のコメントしょうもないねん」って返したり、坂東さんなら「真君がアホやから」みたいに返したのがドッカンドッカンウケたんです。結果的にその番組で優勝して、そこから一気に仕事が増えましたね。
――タモリさんや島田紳助さんなど、本人が憑依したようなコージーさんのものまねがハマったんですね。
コージー:僕のものまねは完全コピーじゃなくて、自分の中で作るものまねというか「この人はこういう性格だろうな」って決めつけて、ちょっと誇張していくスタイルなんです。だからものまねしている御本人として絡めるのがよかったのかもしれませんね。
――一気に仕事が増えてからは、どれくらいの期間忙しかったんでしょうか?
コージー:5~6年はテレビもラジオも出て、営業もあって働き詰めの日々でした。ほとんど休みもなかったですが、好きな仕事なんでしんどいと思ったことは一度もないですね。
――ブレイク当時、収入もかなりあったのでは。
コージー:最高月収は600万円とか650万円くらいだと思います。でも自分ではあまり稼ぐことに興味はなくて。食うのに困らなくなって以降は、「これで芸能でやっていける」という気持ちでただただ楽しいことを続けていたという感覚です。

