◆アメリカの「アーティストと政治の関係」との違い
ロックと政治というと、アメリカの民主党とミュージシャンの関係が浮かびます。大統領選や中間選挙のたびにライブパフォーマンスで支持を訴えるのはお馴染みの光景です。こうしたシーンだけ切り取れば、世良公則と何が違うのかと思うかもしれません。でも、両者には雲泥の差があるのです。
アメリカのミュージシャンは政策や大局的なビジョンを支持するために、自らの楽曲を使います。彼らが信じる社会的な善を達成するための奉仕であるという捉え方です。
もちろん人柄に好感を持ち、個人的に支持するミュージシャンもいますが、音楽が社会的文脈の中で政治性を帯びてきた歴史があります。
◆危うく稚拙な“オールイン”の熱意
一方、世良公則が自身のヒット曲の替え歌を演奏することは、高市早苗というキャラクターを売り込む以上の意味はありません。「燃えろサナエ」と、新聞記事の見出しにしやすい表現に徹することは、一言で言えば宣伝だからです。「燃えろサナエ」から生まれる政策や観念、国家像はありません。ただ、世良公則という個人が高市早苗を応援しているという言論の自由を行使したにすぎない。
そういう、低次の音楽の使い方なのです。
布袋寅泰の投稿も、高市早苗という個人へのシンパシーから、音楽に対する評価を必要以上にかさ増ししてしまった。
その意味で、権力との接し方が近すぎると言わざるを得ません。
つまり、布袋、世良の両氏が安易な喜び方をしてしまうのは、ひとえに権力との距離感を間違っているからなのです。
賞賛する言葉にもある程度の屈託や逃げ道を作っておかないから、どうせお友達なんでしょと思われてしまう。
“高市早苗が褒めたディープ・パープル!!”、“熱いサナエはいい女!!” こうした言い方には、権力に対するほんの半歩もの冷めた視線すらありません。このオールインの熱意は、危ういし稚拙です。大人の冷静さを欠いた表現だから、多くの人が首をかしげている。
権力に安心してもたれかかっていることを隠そうとしない言語感覚がダサいのです。
一事が万事。これは言葉や振る舞いといった表現に通じる問題なのだから、彼らの作品も軽薄だと評価されてしまう可能性だってあります。
つまり、布袋寅泰、世良公則は、音楽的な奥行きを失ったとも言えるのです。
文/石黒隆之
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4

