営業職として、約20年にわたって宮崎県で暮らしてきた生野慎次(しょうの しんじ)さん。充実した毎日を送る一方で、心のどこかにはいつも、故郷・鹿児島県いちき串木野市で柑橘農家を営む父の存在がありました。
かつては「絶対に継がない」と思っていた農業。40代を迎えた生野さんはなぜ、家業を継ぐ道を選んだのでしょうか。
そして今、生野さんは農園を「守る」という使命の先に、新たな夢を描き始めています。
子ども時代の記憶から転身の決断、そしてその先に見据える未来まで、お話を伺いました。
「サラリーマンになる」と誓った少年時代
──小学校の頃はずっと農園の手伝いで。土日が来るのが嫌で嫌で仕方なかったんです。
祖父から父へと受け継がれてきた農園。友達が遊んでいる週末も、生野さんはそこに駆り出されていました。当時は今のように便利な機械もなく、「学校に行っていた方がずっといい」と思うほど、作業は大変だったといいます。
中でも一番つらかったのは、夏の薬がけの手伝いだったそうです。小学生の体には重すぎるホースを引きずり、蒸し風呂のようなカッパを着て、マスクもつける。立っているだけでも汗が噴き出すような暑さの中での作業でした。
──こんなこと絶対にやりたくない。だから、サラリーマンになると決めました。
「農園にいたくない」という思いは、生野さんが陸上や空手などのスポーツに打ち込む原動力にもなりました。練習や試合があるときは、手伝いをしなくてよかったからです。それでも、クラブ活動が休みの日曜だけは逃れることができません。少年時代の生野さんにとって、農園は避けたい場所でしかなかったのです。
数十年の時を経て、心が動いた日

柑橘農家になる前、サラリーマンとして日々を送っていた頃の生野さん
──父から「継いでほしい」と言われたことは、一度もありませんでした。
そう語る生野さんは、少年時代の誓いどおり、故郷を離れ、宮崎県でサラリーマンになりました。「人と接することが好き」と話す生野さんが就いたのは、営業の仕事。特に、10年間在職した医療業界の営業では、患者さんが回復して元気になっていく姿に何度も触れ、自分が力になれていることに大きなやりがいを感じていたそうです。
しかし、老いていく父の姿を目にするたび、生野さんの心は揺さぶられます。決定的だったのは、親族が集まる法要のときでした。
──長く座ったあと、なかなか立ち上がれずにいる父の姿を目の当たりにして、「元気に動ける時間は、もう長くはないんだ」と実感したんです。
とはいえ、営業職として築いた長年のキャリアを手放すことには未練もあったといいます。それでも、生野さんは実家に戻る道を選びました。老いていく父の姿と、周囲からの期待。そして、自分の心に真剣に向き合ったとき、「やろう」という覚悟が固まったのです。

