「合理的な判断」で合致した2人
互いに不満を抱える夫婦にとって、退職金は「離婚後の自立資金」として切実な意味を持ちます。しかし、タカミチさん夫婦にとって、この5,200万円は別の意味を持ちました。
退職金:それぞれが2,000万円以上のまとまった現金を手にした。
年金:2人とも厚生年金を受給するため、1人でも十分に生活が維持できる。
家:マンションを売却すれば、さらに数千万円の資産を分け合える。
「これからは、自分のペースだけで生きてみたいと思うんだけど。あなたはどう?」チヅルさんがそう提案したとき、タカミチさんは少し考えたあと、賛成しました。
相手に合わせるストレスはないけれど、誰かと暮らす以上、食事の時間や外出の予定など、無意識に行っている「微調整」は存在します。また、お互いを知り尽くした関係性から「あっ、これをしたら相手はイラっとするだろうな」「これ以上言うのはやめよう」など、先回りの気遣いをしていました。2人は、これからはそのわずかな調整さえも手放し、完全なる「個」に戻ることを望んだのです。
離婚のコストと、老後大切にしたいものを天秤にかけて…
娘は「仲が悪いわけでもないのにどうして別れるの? 離婚届を出したり、家を売ったり、そんな面倒な思いをしてまで別れなくても」と食い下がりました。確かに、離婚による住居の移転や名義変更の手続きは多大な労力を伴います。しかし、2人の計算は明快でした。
明治安田生命の調査(2023年)では、60代の夫婦が抱える不満のトップは「生活面での細かなズレ(32.6%)」です。また、男性は「ひとりの時間がとれない(14.4%)」ことに、女性は家庭内の細かな管理負担に、潜在的な不満を感じやすい傾向があります。タカミチさん夫婦にとって、離婚の手間は「一回限りのコスト」に過ぎませんでした。
一方で、得られるメリットは「これからの人生20〜30年における、24時間365日の完全な自由」です。
将来的な介護問題は?
娘が最後に投げかけたのは、最も切実な疑問でした。「いまは元気でも、これから先、介護や病気になったらどうするの? 2人でいれば助け合えるのに」。
この問いに対しても、2人の答えは準備されていました。
「お互いに助け合うことを前提に添い遂げるのは、裏を返せば、相手に老後の面倒を強制することにもなりかねない。私たちはそれを望んでいないの」
2人には、合わせて5,200万円の退職金と、それぞれが受給する厚生年金があります。
経済的な解決:介護が必要になれば、その資金を使ってプロのサービスや施設を気兼ねなく利用できる。
相手への尊重:長年連れ添ったパートナーだからこそ、身体が衰えた姿を日常的にさらしたり、排泄や入浴の介助を強いたりすることを避けたかった。
責任の分離:どちらかが病に倒れたとき、もう1人が共倒れになるのではなく、それぞれが自分の資産で最善の医療とケアを受ける。
2人は「結婚を老後の保険にしない」という共通の考えがあったのです。経済的に自立しているからこそ、相手を「老後の世話役」として拘束するのではなく、すべてを自分の責任で自由に決めることが、39年間の感謝を込めた最後の誠実さという価値観で一致していました。
「残された時間は、もう誰かのパートナーとしてではなく、ただのタカミチ、ただのチヅルとして使い切りたい」その一貫した論理の前に、娘も最後には「お父さんたちらしいね。もう好きにしたら」と苦笑いして引き下がるしかありませんでした。
