今年のゴールデンウィーク、皆さんはどこに行かれましたか?
私は、少しばかりの休息を求め、熱海の温泉施設へと足を運びました。
最近の温泉はマッサージも受けられますし、ご飯も美味しいですし、まるでテーマパークのようです。
私以外にも周囲の人々はみな、ご当地グルメに舌鼓を打ったり、温浴施設でのんびりと湯船に浸かって日頃の疲れを癒したりと、思い思いの休日を過ごしていました。
しかし、そんな賑やかな空間の片隅に、目を引く光景が。
一人の子どもが、休憩スペースのテーブルにぽつんと座り、一心不乱に算数のドリルを解いていたのです。
周りの子どもたちがキッズスペースではしゃぎ回り、大人たちが談笑している中で、その子だけがひとりぼっちで黙々とペンを走らせている。
親御さんらしき大人の影は近くになく、ひたすら一人で勉強している様子。幸いにもその子自身は嫌がる様子もなく、やるべきことを淡々とこなしている印象でした。
とはいえ、分厚いドリルに立ち向かうその小さな背中を見ていると、私はなんとも言えない違和感を覚えたのです。
大型連休中に温泉テーマパークに来ていることや、折り目もついていない進学塾用のドリルを進めていることから、おそらく中学受験を想定した勉強の最中であり、この子の家庭が決して経済的困窮に苛まれているわけではないと見える。
だからこそ、私には「体験格差の本質」を感じられてしょうがなかったのです。
多くの人は「親の収入格差=体験の格差」と考えがち。
しかし、本質が宿るのは「お金があるかどうか」ではなく「子どもにどのような時間を与えるか」です。
「親の見識の広さ」こそが、格差を生み出す本質なのです。
今回は「お金持ちでも陥る“体験貧困層”への転落現象」についてお伝えします。

◆子どもには“限定的な体験”をさせるべき
昨今、頻繁に問題視される「体験格差」ですが、我々の人生を形作る「体験(経験)」とは、一体どのような要素から成り立っているのでしょうか。私は、体験が最低でも2つの特別な要素を併せ持つと考えています。
それは「時」と「場所」。
例えば、4月の京都を訪れたとしましょう。あなたは、京都の寺院を観光してもいいですし、市内のカラオケボックスに入ってもいいですし、ホテルのベッドに寝転がってスマホをいじって過ごしてもいいかもしれない。
本来なら、京都旅行中だろうが、何をしてもいいはず。それにも関わらず、誰もが「カラオケやスマホなんて、もったいない!」と感じられたのでは。
それは、「春の桜が満開の京都を訪れる」こと自体が、「時」と「場所」の二重の限定性を有しているからに違いありません。
「今しかできないこと」と「いつでもできること」があるなら、前者を選び続けたほうが、経験の多様性は広がりやすくなります。
ですから、もしも子どもに体験格差によるハンデを背負わせたくないなら、優先的に「限定イベント」に触れさせるべきです。
「今しかできないこと」「ここでしかできないこと」に触れる中で、子どもたちは「自分だけの経験」「周りの人とは違う体験」を積み上げていきます。
やがてこれは「個性」や「独創性」と呼ばれるパーソナルな何かへつながっていくでしょう。
◆いくら裕福でも「体験格差」の当事者になりかねない
実際に、私は長期休み前の学生に必ず「長期休みでしかできないことをやれ」と伝えます。たくさん遊んでもいいし、勉強しても、部活に費やしてもいい。なんなら、長期バイトで家を空けるのもいいかもしれない、と。同時に「TikTokやInstagramのリール動画を見る毎日だけはやめなさい」とも伝えます。
ショート動画を延々と見続けるような行動は、先ほど述べた「限定性」が極端に低いためです。「いつでも・どこでもできる」からこそ、スケジュールを無自覚のうちに圧迫させやすい。
意識して遠ざけないと生活の大部分が占領されてしまうでしょうし、結果として「その時、その場所でしかできない限定的な活動」に割く時間が奪われてしまいかねない。
もちろん、全てがそうとは言いませんが、これこそ体験格差を生む一因のひとつではないかと私は考えています。
極端な話、都心暮らしの裕福な家庭でも、学習塾と学校を往復するだけの生活を送っているようなら、「体験格差」の当事者になりかねません。
ストレス解消手段がスマホゲームやSNSしかないならば、なおさらです。
親が「お金をかけて塾に通わせているから大丈夫」と安心している間に、子どもは「生の体験の欠如」に陥っているかもしれない。

