◆最も権力を持つ側が“匿名で”中傷する卑怯さ
今回の件で改めて考えさせられたのは、匿名というものの意味です。相手を批判すること自体は悪ではありません。時には厳しい言葉を使うことも必要でしょう。政治家や著名人に対する批判は民主主義社会において重要な役割を果たします。問題は、その批判を誰が行ったのか分からない状態で発信することです。
名前も顔も隠し、責任を負わない形で他人を攻撃する。もし今回の疑惑が事実であるならば、それは単なる中傷の問題ではありません。署名のない原稿で人を罵るような行為を、社会で最も強い権力を持ち、時には強制的に法執行を行える側が利用していた可能性があるということになります。
つまり、一番強い者が一番卑怯だった、という話なのです。
民主主義において権力者には説明責任が求められます。ところが匿名性は、その責任を消し去る力を持っています。もし最高権力者クラスの政治家が匿名アカウントの運営や世論誘導に関わっていたとすれば、それはモラルハザードの極地と言わざるを得ません。
事実であれば、民主主義を根っこで支えていた信頼は無惨に消え去ってしまったのです。
◆騒動が浮き彫りにしたネットの危険性
さらに、この問題はインターネットそのものへの見方にも影響を与えています。これまでネットは「自由にものが言える空間」だと考えられてきました。匿名だからこそ発言できることがあり、既存メディアでは拾われない声が可視化される。その価値は確かに存在します。しかし、その裏側には別の現実もあります。匿名であるということは、金と権力を持つ者が素性を隠したまま世論を操作できるということでもあるからです。誰が発信しているのか分からない。背後関係も見えない。その情報が本当に個人の意見なのか、組織的な活動なのかも判断できない。今回の騒動は、そうした危険性を改めて浮き彫りにしました。
近年はネット選挙の拡大を求める声もあります。しかし、匿名性を利用した世論操作の可能性がこれほど現実味を帯びている状況で、私たちは本当にその方向へ進んでよいのでしょうか。

