「知らない人は家に入れたくない」
1年が過ぎるころ、コハルさんは要支援の認定を受けました。ケアマネジャーからは、週2回のヘルパー利用を勧められます。ミクさんにとっては朗報でした。自分が仕事から帰るまでの時間をヘルパーに任せることができれば、残業を増やしてもう少し働くことができるかもしれない、と思ったからです。
しかしコハルさんは首を縦に振りませんでした。「知らない人を家に入れるのは嫌。あなたがいるんだから、それで十分でしょ」。
その一言で、ミクさんの選択肢は消えました。やむなく正社員から時短勤務に切り替え、月収は約8万円減りました。コハルさんの年金14万円に、ミクさんの手取りを合わせてようやく生活が回る状態です。自分自身の貯蓄は、同居からの3年間でおよそ250万円減っていました。
限界が来たのは、ある朝でした。コハルさんが腹痛を訴えたのです。ミクさんはすぐに近くのクリニックへ連れていこうとしましたが、コハルさんは「かかりつけの先生以外はイヤ」と動こうとしません。かかりつけ医の診療は週3日で、その日は休診日でした。「明後日まで待てばいい」と言い張るコハルさんに、ミクさんは疲れ果ててしまいます。
後日、ケアマネジャーに電話をかけたミクさんは、声を詰まらせながら言いました。
「お母さんとは、無理です」
見えにくいコストと、介護離職の現実
総務省「令和6年全国家計構造調査」(2025年12月公表)によると、75歳以上の単身無職世帯の実収入は月平均15万5,129円で、そのうち公的年金などの社会保障給付は14万1,100円です。コハルさんの年金月14万円は、この水準にほぼ合致します。単身の場合はこの収入でなんとか生活が回る設計ですが、ひとたび同居となると生活費の構造は大きく変わります。さらに、コハルさんのような「こだわり」が加わると、食費・交通費・その他の出費が静かにふくらみ、それを埋めるのは往々にして同居する子世代です。
ミクさんのように介護離職を迫られる状況に置かれている人がどれほどいるのでしょうか。総務省「令和4年就業構造基本調査」によれば、家族の介護を理由に離職・転職した人は年間約10万6,000人にのぼります。そのうち40〜50代が約7割を占め、働き盛りの世代が最も大きな影響を受けています。さらに深刻なのは、介護サービスを利用せずに家族だけで抱え込むケースです。コハルさんのように「他人を家に入れたくない」「自宅から離れたくない」と介護保険サービスを拒否する高齢者は少なくなく、本来なら活用できるサービスが使えないまま、子世代が仕事と介護の板挟みになっていきます。
公益財団法人生命保険文化センターの「生活保障に関する調査」(2025年度)では、老後生活に不安を感じている人は83.2%。不安の最大の理由は「公的年金だけでは不十分」(79.8%)でした。現役世代は自分の老後を心配しながら、親の介護も担う。その二重の重圧が、気づかないうちに家計と人生設計を蝕んでいきます。
