大切な孫を苦しめる遺言
佐伯さんの相談は、ここからが本題でした。
手書きのメモを懐から出しながら、「実は、美咲に多めに残したいんです」といいます。
メモの内容は、自宅マンションを長男へ、賃貸アパートを長女へ、そして金融資産の大部分を美咲さんへ渡すというもの。
「美咲には、昔からいってきました。お前に全部あげるからな、と」
佐伯さんは笑っているものの、その言葉は、家族間では笑い話で済まなくなっているようです。長女は、すでに父との距離を置いているとのこと。理由は明確です。自分の子どもたちは祖父からほとんど支援されなかった。それなのに、兄の娘だけが高額な教育資金を受け取り、さらに相続でも多く受け取る——。
「ほかのご家族には、このお考えを説明されていますか」「家族なんだから、わかるでしょう」
筆者は首を横に振ります。「相続では、その“わかるでしょう”が一番危険です」。
孫は、通常、親が存命であれば法定相続人にはなりません。つまり、美咲さんへ財産を直接渡したいなら、遺言などで意思表示をする必要があります。
「生前の『教育資金贈与』は贈与税の特例でしたが、遺言で亡くなったあとに財産を渡すとなると、今度は『相続税』のルールが適用されます。そして日本の税法では、子どもが健在であるにもかかわらず孫に財産を遺す場合、相続税が2割重くなる『2割加算』というルールがあるのです」
佐伯さんは「税金が重くなる……?」と怪訝な顔をされました。
「そうです。長男や長女が引き継ぐよりも、美咲さんが受け取る分だけ、税金が1.2倍になってしまう。さらに問題なのは、遺言で自由にわけられるといっても、子どもたちには遺留分という最低限の取り分があることです」
もし金融資産の大半を美咲さんに渡す内容にすれば、長女が遺留分を主張するかもしれません。その請求の矛先は、財産を受け取った美咲さんへ向かうでしょう。
「美咲さんは、人より高い税金を払わされたうえに、美咲さんを親族争いの中心に置いてしまうかもしれません」
筆者がそう伝えると、佐伯さんは表情を変えました。
「美咲が、責められるんですか」「可能性はあります。すでに教育資金で大きな差がついています。そのうえ相続でも差をつければ、ほかのご家族の不満は、美咲さんに向かいやすくなります」
佐伯さんはしばらく沈黙したあと、俯きました。
「……確かに、日曜日でも面会の名前が呼ばれないのは私だけ。それが答えなんでしょうね……」
そこで筆者は、すぐに遺言書を作るのではなく、まず3つの整理をすることを提案しました。
1.これまでの贈与の棚卸し
誰に、いつ、いくら、なんの目的で渡したのか。教育資金の一括贈与として金融機関を通したもの、都度支払った塾代や授業料、留学費、家賃補助。税務上の扱いとは別に、家族がみたときに「どれくらい差があったのか」を可視化する必要があります。
2.自身の老後資金を先に確保する
資産3億円といっても、そのすべてを相続対策に回せるわけではありません。有料老人ホームの費用、医療費、将来の介護度上昇に備えた資金、身元保証や死後事務の費用も考えておく必要があります。
「遺産の前に、まず佐伯さんご自身が最後まで困らないお金を別枠で残しましょう」
そう提案したのは、佐伯さんが子や孫に残すことばかりを考えていたからです。
3.ほかの孫たちに“遅れた公平”を作る
美咲さんへの援助とバランスを取るために、ほかの孫にも同じ金額を機械的に渡せばいいというわけではありません。年齢も進路も違えば、必要なお金も違うからです。
「平等ではなく、公平に近づけましょう。たとえば、ほかのお孫さんにも進学、資格取得、結婚、住宅取得、独立開業など、人生の節目に使える支援枠を設ける方法があります。ただし、税務上の扱いは目的や渡し方で変わりますから、税理士にも確認しながら進めるべきです」
教育資金贈与の制度を特定の孫だけに使えば、家族のなかに「選ばれた孫」と「選ばれなかった孫」を作ってしまいます。
「佐伯さんが美咲さんを大切に思うなら、美咲さんの取り分を多くする遺言ではなく、美咲さんが責められない遺言にすべきです」
佐伯さんは納得した様子で頷きました。その日初めて、佐伯さんは「自分の財産をどう渡すか」ではなく、「自分のお金が家族にどうみえていたか」を考えはじめたようです。
家族会議で語られた「選ばれなかった側」の本音
数週間後、佐伯さんは長男と長女をホームに呼びました。最初、長女は来ることを渋った様子。
「どうせまた、美咲ちゃんの話でしょう」。電話口でそういわれたそうです。結局、長男があいだに入り、ホームの面談室で家族会議が行われることに。筆者も同席し、まずは佐伯さんの資産状況と今後の生活資金、過去の贈与の整理表を説明しました。
美咲さんへの援助が2,000万円を超えていること。ほかの孫たちとの差があること。このまま金融資産の大半を美咲さんに遺贈すれば、長男・長女のあいだだけでなく、美咲さんといとこたちの関係まで悪くなる可能性があること。
説明を聞き終えた長女は、「お父さんは、うちの子たちの名前を覚えていないんじゃないかと思っていました」といいました。佐伯さんは、「そんなことはない」と、首を振ります。
「でも、美咲ちゃんの学校や留学や、成績の話は何度もしていた。うちの子が専門学校に入ったときは、『それで食べていけるのか』って」
佐伯さんは躊躇った様子で、「すまなかった。お前たちを軽くみているつもりはなかった」と返したものの、長女は、すぐには頷きませんでした。
当然でしょう。数十年分のわだかまりが、一度の謝罪で消えるわけではありません。ここで、佐伯さんと考え直した案を説明しました。
まず、佐伯さん自身の老後資金を確保する。次に、遺言書では長男と長女の取り分を明確にし、遺留分を巡る争いが起きにくい形にする。さらに、孫5人については、すでに多額の支援を受けた美咲さんを除き、相続税の2割加算に配慮のうえ、ほかの孫たちにも一定の支援枠を設ける。ただし、それは「美咲さんと同額にするための埋め合わせ」ではありません。
「祖父として、遅れてでも全員の人生を応援したい」。その趣旨を、佐伯さん自身の言葉で伝えることが目的でした。
遺言書の付言事項には、佐伯さん自身の言葉を残すことに。
「美咲に多く援助したことは、私の期待と愛情からでした。しかし、そのことでほかの孫たちやその親に寂しい思いをさせたなら、申し訳なく思っています。私の財産が、家族を争わせる原因ではなく、それぞれの人生を支えるものになることを願っています」