資産3億円の使い道を変えたあと
家族会議から2ヵ月ほど経ったころ、筆者は再び佐伯さんの入居する老人ホームを訪ねました。遺言書の内容と、今後の贈与方針を最終確認するためです。公正証書遺言を作成する前に、佐伯さん本人の意思が変わっていないか、家族への説明に無理がないかをもう一度確認する必要がありました。
「長女のところの下の子が、資格を取りたいそうです。『じいちゃん、こういうのを考えている』と、連絡をくれたんです。前の私なら、そんなものに金を出してどうするんだといっていたかもしれません」
佐伯さんは苦笑しました。
「でも、あの子にはあの子の道がありますね」
面談の終わり、ロビーでは今日も別の入居者の家族が面会に訪れていました。職員の声が響きます。「〇〇様、ご家族がお見えです」。以前の佐伯さんなら、その声を聞くと寂しそうに顔を伏せていました。けれど、その日は違いました。
「来週、長女が電話をくれるそうです。孫も横にいるかもしれません。まだ、わかりませんが」と少し照れたようにいいます。
完全に閉じていた扉が、少しだけ開いたようにみえました。
相続対策というと、多くの人は税金を減らすことを考えます。教育資金贈与、暦年贈与、生命保険、遺言書、不動産の活用。どれも大切な選択肢です。しかし、家族へのお金の渡し方を間違えると、節税に成功しても、関係性で大きな損失を抱えることがあります。
大切なのは、誰にいくら渡すかだけではありません。なぜ渡すのか。ほかの家族にはどうみえるのか。受け取った人が、あとで責められない形になっているか。そして、自分自身の老後資金を削ってまで、子や孫に渡そうとしていないか。
佐伯さんの失敗は、愛情を、お金の多寡で示しすぎたことです。しかし救いがあったとすれば、まだ自分の意思を自分の言葉で伝えられるうちに、その渡し方を見直せたことでした。お金の整理は、家族関係を完全に修復する魔法ではありませんが、こじれた感情をこれ以上悪化させないための、最後の手当てにはなります。
資産3億円をどう残すかよりも、最後に誰が面会に来てくれるのか。佐伯さんがようやく向き合ったのは、相続税の数字ではなく、その問いだったのです。
〈参考〉
国税庁「No.4510 直系尊属から教育資金の一括贈与を受けた場合の非課税」
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/zoyo/4510.htm
国税庁「No.4405 贈与税がかからない場合」
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/zoyo/4405.htm
政府広報オンライン「知っておきたい相続の基本」
https://www.gov-online.go.jp/article/202403/entry-5848.html
法務省「相続に関するルールが大きく変わります」
https://www.moj.go.jp/content/001285382.pdf
波多 勇気
波多FP事務所 代表
ファイナンシャルプランナー
