遺言書1通で、お金の行き先を変えられる…「新たな選択肢」
「突然降って湧いた大金は、時に人生を狂わせることもあるというでしょう? 疎遠の甥に全額は、迷いがあってね」
葬式や手続きなどで手間をかけるかもしれないので、ある程度の遺産を甥に残したいという気持ちは当然あります。しかし、ただ血が繋がっているというだけの理由で、全財産を彼に渡す。それでいいのだろうか?
――そう頭を悩ませていたときに、相続セミナーで出会ったファイナンシャルプランナーの永瀬さん(仮名)に、横川さんは思い切って悩みを打ち明けました。そこで聞いたのが、「遺贈寄付」という選択肢でした。
「甥御さんに残すのも一つの選択ですし、お世話になった人や団体、社会に役立てるという考え方もあります。その意思を形にする方法として『遺言書』があるんですよ」
子や親などには「遺留分」という、最低限受け取れる権利があります。しかし兄弟姉妹・甥・姪には、この遺留分がありません(民法第1042条)。つまり遺言書さえ書いておけば、例えば甥への相続をゼロにして、別の人や団体に全財産を渡すこともできるのです。
公正証書遺言の作成にかかる公証人への手数料は、今回のような財産規模で6万円台です。司法書士や行政書士への依頼費用を合わせても、数十万円程度が目安です。
「たとえば一部を甥に残して手続きの負担を減らしつつ、残りのまとまった財産をご自身が関心のある自然保護NPOや、母校の大学の奨学金制度、あるいは医療研究機関などに寄付する形も取れます」
永瀬さんのこの提案が、横川さんの心にすとんと落ちました。
「現役時代にコツコツ築いた資産に、相場や地価の上昇が重なって、気づけば自分でも想像していなかった額になっていました。自分の手で『次の世代や社会のために役立てる』と決められるなら、これまでの生活にも、これからの人生にも、新しい意味が生まれるかもしれません」
横川さんはいま、遺言書の作成に向けて動き始めているそうです。
最後に誰へ、どのような思いで残すのか
「お金をうまく使えず、資産が増えてしまった。その結果、使い切ることができそうもない」……横川さんのような悩みを抱えている人は少なくありません。
退職後は本来、現役時代に蓄えた資産を少しずつ取り崩して生活することが想定されています。しかし「いつまで生きるか分からない」「医療費や介護費がかかるかもしれない」「お金が底をついたら困る」という不安から、使ってもよいお金まで使えなくなってしまう……。
経済学では、この現象を「退職後の資産取り崩しパズル」(資産取り崩しの難題、または退職後も貯蓄が続く難題)と呼びます(※4)。
もし「使いたいけれど怖い」と感じるなら、手元の資金を「①生活費として計画的に使うお金」「②医療・介護などに備えるお金」「③人生を楽しむために使ってよいお金」の3つに分類して『見える化』してみることをおすすめします。
「これだけあれば介護が必要になっても大丈夫」「老人ホームに入っても足りる」などの防衛ラインがはっきりすれば、残ったお金は「計画の範囲内だから安心して使えるお金」へと変わり、日々の暮らしに潤いを与えるゆとりが生まれます。
それでも資産が余ったら? 自分が旅立った後の資産のゆくえについても、正解は一つではありません。ですが、「多額の財産を疎遠な身内に全額引き継ぐのは、気が進まない」。そう思う人にとって、遺言書と遺贈寄付は現実的な選択肢になります。実際、日本承継寄付協会の集計によれば、遺贈寄付の実行件数は2013年の369件から2022年には1,040件と、約3倍に増えています(※5)。
資産をぴったり使い切って人生を終えることは、実際にはほとんど不可能です。だからこそ、資産を「どう増やすか」だけでなく、「最後に誰へ、どのような思いで残すのか」もまた、老後には避けては通れないテーマになります。
何もしないまま、自分の意思とは関係のない形で財産が引き継がれることを避けたいのであれば、一度立ち止まって考えてみる価値はあるでしょう。迷いや悩みがあるなら、ファイナンシャルプランナーや司法書士などの専門家に相談することから始めてみてはいかがでしょうか。
(※1)一般財団法人土地情報センター「地価公示 都道府県市区町村別・用途別 平均価格」より算出。東京都の住宅地平均地価は2015年(350,300円/㎡)から2026年(565,100円/㎡)で約1.6倍に上昇。
(※2)国税庁「No.4152 相続税の計算」基礎控除額の計算式(3,000万円+600万円×法定相続人数)および国税庁「No.4155 相続税の税率」税率速算表より。
(※3)国税庁「No.4157 相続税額の2割加算」より。なお、子が先に死亡して孫が代襲相続人となった場合は例外的に対象外となる。
(※4)退職高齢者が資産を予想より取り崩さない傾向は "Wealth Decumulation (or Retirement Saving) Puzzle"(資産取り崩しの難題、または退職後も貯蓄が続く難題)と呼ばれる。Niimi and Horioka(2019)は日本の高齢者を分析し、予防的貯蓄動機と遺産動機がその主要因であることを示した。Horioka and Ventura(2022)は欧州多数国のデータを用いて同難題が欧州においても成立することを示唆した。
・Niimi, Y. and Horioka, C.Y., Journal of the Japanese and International Economies, Vol.51, 2019, pp.52–63. https://doi.org/10.1016/j.jjie.2018.10.002
・Horioka, C.Y. and Ventura, L., NBER Working Paper No. 30470, 2022. https://www.rieb.kobe-u.ac.jp/academic/ra/dp/English/DP2022-34.pdf
(※5)一般社団法人日本承継寄付協会「遺贈寄付白書」(2024年9月発行・同年10月更新)より。
青山創星
ファイナンシャル・プランナー
