
多くの中小企業M&Aにおいて、経営者が後から最も頭を抱え、最悪の場合は会社分裂の危機にまで発展するのが、決算書には1円も表れてこない「労務(人)のリスク」です。特に注意が必要なのが、労働条件通知書や雇用契約書といった書面が存在せず、「社長と従業員の口約束(口頭)」で雇用契約が成り立っている売り手企業を買収してしまったケースです。「就業規則があるから、そこに書かれている条件通りに引き継げば大丈夫だろう」―そのように考えていると、買収後の統合プロセス(PMI)で従業員から一斉に反発を受け、現場が完全に機能不全に陥るかもしれません。M&A後の労務統合支援に強い社会保険労務士の安達弘貴氏が、実際の現場で起きたトラブルの実例をもとに、買収前に必ずチェックすべき労務の防衛策を解説します。
【実際の事例】就業規則は「定年60歳」だが…面談した社員たちが口々に放った"まさかの一言”
私はこれまでに、M&Aにおける労務PMI(買収後の労務統合・融和プロセス)を複数社お引き受けしてきました。その中で直面した、愛知でITインフラ事業を展開するM社の長谷川社長(仮名・54歳)の事例をお話しします。
長谷川社長は事業拡大のため、大阪にある従業員15名ほどの老舗のシステム保守会社であるS社を買収しました。譲渡の理由は、S社の前社長である佐藤氏(仮名・76歳)の「高齢を理由とする引退」でした。
買収手続きが一段落し、私は長谷川社長から次のような依頼を受けました。
「S社の就業規則に『定年60歳・継続雇用65歳まで』とあるから、今回はなるべくその労働条件に近づけるかたちで、そのとおりに労働条件通知書を作って面談を進めてほしいです」
そこで、私は全従業員への説明会と個別面談に同席することになりました。
「これならスムーズにいくだろう」。そう思いながら、私は作成した書面を手に、S社のエンジニアの方々と1人ずつ個別面談をスタートしました。ところが、1人目の面談から、私たちの想定はガラガラと音を立てて崩れ去ったのです。
書面を提示した瞬間、中堅エンジニアの男性は不満げな顔でこう言いました。
「え? 定年60歳? そんなの聞いてないですよ。入社するときに、前の佐藤社長から口頭で『うちは定年なんてないから、働けるまでいつまででもいていいよ』って言われて入ったんです」
嫌な予感がしました。そしてその予感は確信に変わります。2人目、3人目……面談にやってくる社員が、次から次へと全く同じことを言うのです。
「私は佐藤社長から、フレックスで何時に来てもいいって言われています」
「就業規則? そんなの見たこともないし、前の社長との約束がすべてです」
なんとS社は、近年の深刻なITエンジニア不足の際に「どうしても優秀な人を採りたい」と焦った前社長が、独断の口約束で、自社の就業規則を完全に無視した"超好条件"で個別に採用を繰り返していたのです。
「M社に買収されて自分たちの権利が奪われる!」という不満や不安も次々と噴き出し、その日の面談はただただ重い空気が流れるだけで、むなしく終了してしまいました。
【泥沼の調整】迫る初回の給与支給日…私が提案した「苦肉の折衷案」
M&Aにおいて従業員の労働条件を買い手側に合わせる(不利益に変更する)には、「従業員全員の個別同意」が絶対条件です。口約束であっても、労働契約は法的に成立してしまっているからです。
その後、長谷川社長、S社の従業員、私を交えた話し合いを幾度となく重ねました。しかし、一度不信感を持ってしまった従業員たちのガードは固く、全く同意を得られないまま、あっという間に1か月が過ぎてしまいました。
そうこうしているうちに、買収後初めての「給与支給日」の足音が近づいてきます。このまま未契約の状態で給料を支払うわけにはいかない……。現場の収拾がつかなくなると危機感を抱いた私は、長谷川社長に一つの「折衷案」をご提案しました。
「長谷川社長、もともとM社は"定年60歳・継続雇用65歳まで”、S社は口約束の"定年なし”ですが、このまま突っぱねればエンジニアが全員離職するか、法的な紛争になります。間をとって、今回は『定年65歳・継続雇用70歳まで』という特例の折衷案で譲歩されませんか?」
長谷川社長も苦渋の決断でしたが、私の提案を信頼して承諾してくださいました。私はすぐにその内容で労働条件通知書を再作成し、従業員の皆さんに改めて提示しました。
「新しい会社が自分たちの言い分を汲んで、一歩譲歩してくれた」という姿勢が伝わったのか、張り詰めていた現場の空気がフッと緩みました。そこから1人、2人と労働条件通知書に署名してくれる人が現れ、ついに全員から同意の署名をもらうことができたのです。
全員のサインがそろったとき、安堵で背中が汗でびっしょりになったのを、今でも鮮明に覚えています。
