みなさんは、最近の若い世代から、こんな言葉を耳にしたことはないでしょうか。
「今回のインターンで、すごく成長を実感できました!」「これからもどんどん成長していきたいです!」……いわゆる「意識高い系」の学生はそろってこのように述べます。
たしかに、向上心があるのは素晴らしい。しかし、私は現役の東大生たちがこぞって「成長」を口にし、その結果としてコンサルティング業界へ群がっていく姿を見るたびに、強烈な違和感を覚えずにはいられません。
本来、「成長」や「自己研鑽」とは、何かを成し遂げるための手段にすぎないはず。
もし本当に「自分の能力を高め続けること」自体が目的ならば、職人や芸術家のような専門職を目指すはずでしょう。
「成長して、結局何になりたいのか?」が不明瞭なままでも成長したがる。『東大生はなぜコンサルを目指すのか?』(レジー 、集英社新書)の中では、このような人々を「できることが増えること自体が喜び」となった「成長教の信者」と指摘しています。
ですが、もはや現代人の多くは「成長」に疲れているのではないでしょうか。本音を言えば、もっとダラダラ暮らしたい。でも向上心を見せないと評価が下がるから言えない。これでは板挟みです。
成長に疲弊してきた現代人がとるべき施策を考察します。

◆「圧倒的成長」の呪縛
先述の『東大生はなぜコンサルを目指すのか』によれば、私たちはここ20年ほど、「圧倒的成長を遂げねばならない」という強烈なプレッシャーに晒されているそうです。確かに成長は素晴らしい。しかし、指標と方向性がなければ意味がありません。「痩せたい」なら5キロ減量は「成長」でしょうが、「太りたい」ならばむしろマイナスです。
ある変化に対して「成長した」といえるかどうかは、評価者の立場によって変化します。
逆に言えば、評価者が自分勝手に決めてきた「成長」の定義に、私たちは数十年間ずっと振り回され続けていたのです。
その反動からか「仕事は最低限にしてプライベートに全振りする」一部のZ世代も出現しましたが、それでは短期的には楽しくても、そのまま5年、10年と経ったとき、厳しい現実が待っているでしょう。
成長を遂げた同世代との間には残酷なほどの差が開き、結果として大半が悲惨な老後を送るリスクは否めません。
ただし、「やっぱり圧倒的成長を目指し続けるしかない」と考えるのも危険です。
なぜなら、成長や努力には、「アリとキリギリス」のアリになれるかどうかの適性、つまり才能の壁が存在するからです。
身長160cmの人がどれだけトレーニングしても、190cmのバレーボール選手を差し置いて活躍するのは難しい。
同じ努力量でも、先天的な知能やメンタルの差によって結果は残酷なまでに分かれます。
その限界に気づいたとき、人は頑張る気を失い、最悪の場合は絶望して心を病んでしまうのです。
◆自分の軸を分散する
では、私たちはこの息苦しい社会をどう生き抜けばいいのでしょうか。解決策の1つは、大谷翔平選手のように「仕事と道楽を融合させる」こと。しかし、これは一握りの天才にしか不可能でしょう。
そこで、凡人たる私たちが取るべきもう1つの策は、「仕事と、人生を楽しませる趣味を完全に分けること」。
仕事においては、結果が出なければ昇進も昇給も望めません。ですから、ある程度の「成長」を求めて頑張る必要があります。
とはいえ、仕事一筋では仕事の挫折や成長の失敗に直面した時に、立ち直れなくなるリスクも出てくる。そこで、自分を別の方向から支えてくれる趣味の軸を、もう一本通すのです。
ただし、趣味には絶対に成長義務を課さないこと。趣味の世界まで「もっと上手くならなきゃ」と自分を追い詰める必要はありません。勝てなくてもいい、下手でも楽しい。それが趣味の本質です。
現代人に必要なのは「圧倒的成長」ではなく、「ちょっとの成長」です。仕事においては、ちょっとの努力でちょっとの成長を得る。そして残った元気で、ちょっとの楽しみを得る。
これを繰り返していくうちにキャパシティが広がり、仕事の結果にレバレッジが効いてきます。
20代の頃は多少の努力が必要かもしれませんが、その結果として30代・40代での安寧な余暇を勝ち取る。それこそが、最も現実的な生存戦略だと考えます。

