会社を守るために選んだ「M&A」
翌週、阿部社長はM&Aアドバイザーに連絡を取りました。最初は情報収集だけのつもりでしたが、話を聞くうちに、考えが変わっていきます。会社を売ることは、会社をなくすことではない。社員の雇用を守り、取引先との関係を維持し、会社を次の成長へつなぐという選択肢もある……。
数ヵ月後。阿部社長は、技術力を高く評価していた同業大手への譲渡を決断します。条件は1つだけでした。
「社員全員の雇用と取引先の仕事を守ってください」
そういって、契約書に署名しました。30年間守り続けてきた会社を、自らの意思で手放すことにしたのです。涙は出ず、不思議と肩の荷が下りたような気持ちでした。
売却の少しあと。阿部社長のもとに、一通のメッセージが届きました。送り主は恵理さんでした。
「結婚した。会社、継いであげられなくてごめん。会社を売ったってお母さんから聞いたよ」
それを読み、阿部社長は「これでよかったんだ」と笑顔になりました。時間は戻りません。2人の傷も、簡単には消えないでしょう。それでも阿部社長は、ようやく娘を「後継者」ではなく、一人の娘として見つめられるようになったのでした。
会社を残す選択肢は、「親族承継」だけではない
多くの経営者は、自分が築いてきた会社を子どもに継いでほしいと考えます。それ自体はごく自然な感情です。しかし、「子どもに継がせること」と「会社を残すこと」は必ずしもイコールではありません。
阿部社長は娘を大切に思っていたからこそ、人生を懸けた会社を託したかったのでしょう。しかし、親の願いと子どもの人生は、いつも一致するとは限りません。子どもには子どもの人生があります。経営者にとって本当に大切なのは、「誰に継がせるか」ではなく、「会社をどう残すか」という視点です。
親族承継だけが、事業承継ではありません。上場、役員や社員への承継、M&Aなど、選択肢はいくつもあります。阿部社長が選んだ売却も、決して敗北ではなく、社員を守り、会社を未来へつなぐための、戦略的な決断でした。
会社の未来を決める際には、感情だけでなく、実行可能な戦略を冷静に見定めることが重要です。
萩原 峻大
東京財託グループ 代表
資産形成・経営アドバイザー
