◆なぜか悲鳴を上げ、逃げる男女
バッグを漁る物音が気になったのか、カップルの女性が振り返った。西野さんの姿を見た瞬間、「ひっ」と短い悲鳴を上げて凍りついたという。「男性の方も振り返ったんですけど、こっちを見た瞬間に顔が真っ青になって。『う、うわっ、ごめんなさい!』って胸の前で手を合わせて謝り出して……。こっちが驚いていると、彼女の手を引っ張って逃げていったんです」
呆気にとられた西野さんだったが、自分の手元を見てカップルが逃げ出した理由を理解した。
「当時、私は木工所で働いていて、その日は仕事で使っている30センチ超もある鉄工ヤスリを持ち帰っていたんです。私物のヤスリで趣味の作業のために持ち帰っていたんですが、ヤスリは無骨な木製の柄で、刃の部分はバッグに隠れていました。その柄を握っている様子は、街灯の下だと、ナタとか出刃包丁を抜こうとしてるように見えたんだと思います」
振り返ると、後列の中年男性も青ざめた顔で後ずさりしていた。
「慌ててヤスリを取り出して、『すみません! これただのヤスリです、仕事道具で』と説明しました。そうしたら男性は、『ああ、良かった……脅かさないでよ』って笑いながら『おかげで横入りしてきたやつを追っ払ってもらえたね』と言って千円札を差し出してきたんです。断ったんですが、男性はどうしても譲らなかったので、ありがたくいただくことにしました」
最悪な一日だったが、「最後はスカッとしました」とのことだ。
<TEXT/和泉太郎>
【和泉太郎】
込み入った話や怖い体験談を収集しているサラリーマンライター。趣味はドキュメンタリー番組を観ることと仏像フィギュア集め

