◆塾に思考を外注する人々
よく「○○大卒のくせに使えない」なんてフレーズを耳にします。社会の一部には「高学歴=頭でっかちで残念」としたい勢力も存在するでしょうが、それを差し引いても「残念な高学歴」は存在します。
純粋な知識を『静的知識』、知識同士の関連付け方や手順を『動的知識』と呼びますが、『静的知識』を頼りに受験を勝ち抜くと、「頭でっかち」に見えやすいのです。
『地頭力の正体』(西岡壱誠、中山芳一. 東洋経済新報社)では、「地頭とは星座を描く能力のようなモノで、星(静的知識)がないと絵を描けないし、星々のつながり(動的知識)を見出せないと、ただばらばらと星が瞬くだけにしか見えない」と形容していました。
指摘の通りで、学びとは、個々の知識と、それらを繋げた総体の両方から得られるものであり、どちらかに偏っても意味がありません。
このバランスを自分で整えられる地頭があればよいですが、その実力がなくても教えてもらえれば受かる可能性が出てきます。実は、受験における合格とは、本人の努力と才能以外の要因も大きいのです。
例えば、肝心要の「努力する才能」、すなわち自己管理能力や計画能力、そして「静的知識の詰め込み方」「動的知識の身に付け方」などは、すべて進学塾の優秀なチューターなどが肩代わりしてくれます。
塾とは「勉強コンサル」であり、計画立案や目標設定をすべて外注するために存在する機関です。
ですが、河合塾、駿台予備校、鉄緑会などのライブ授業型教室は、悲しいことに大都市にしか校舎を構えません。
四国から東大に進学した後輩は、かつて「今でしょ!」で有名な林修先生の授業を受けるためだけに、瀬戸内海を渡って大阪の校舎へ足を運んだのだそうです。
別の四国出身者は、「地元には英検1級の会場がないから、広島まで出ないといけなかった」と笑いながらこぼしていましたが、これこそが教育格差の一端を担う「地域格差」に他なりません。
地頭が良くても、努力をしていても、地元にないから、塾に通えない。模試を受けられない。そんな不遇の天才が日本中にごろごろ潜伏しています。それに比べれば、都心の進学校・進学塾の生徒は恵まれたものです。
だからこそ、私は常に疑いを持って受験結果を眺めています。
「もしも、日本中のすべての学生が、全くフラットな地理的・金銭的環境に置かれて育ったならば、難関大進学者のうち半分以上は入れ替わるのではなかろうか?」と。
◆学歴はあくまで努力賞
ただし、これは仮にも「高学歴」なお歴々なら誰もが一度は考え、反省すること。それでもなお「高学歴は地頭が良い」と掲げる人が絶えないのはなぜか?それは、彼ら自身が「負けられない環境にある」ことをよく痛感しているからでしょう。
環境に下駄をはかされて受かった可能性なんて、一度は頭をよぎるもの。ですが、「もしも」の世界を覗くことはできません。
普通ならば、「偶然といわれないように頑張ろう」と前を向くものですが、ここでプレッシャーに耐えられなかったり、大学以降で目立った結果を出せず「高学歴は下駄のおかげだった」と思い込んだりしたならば、その人は壊れてしまうでしょう。
そこで現れる自己防衛こそが「高学歴は地頭が良い」論なのだと思います。
学歴なんてラベルに過ぎず、社会では「お前は何ができるか?」しか問われないことを、読者の皆さんはよくご存じなはず。
でも、自分の中に「何ができる?」の答えがないからこそ「何かができそう」なポテンシャルとして学歴を掲げる。
そして、それが張りぼてに過ぎないことを悟られないように、最大限メッキを重ねる。
彼らは、出来上がった張りぼての象牙の塔から下界を見下して楽しんでいるのでしょう。
本当は、誰の目にも届く嘲笑のシンボルと化しているのに、下界から距離を取ってしまったがゆえに、まともな言葉が届かない。
本当に「地頭がいい」ならば、こんなこと気付いて然るべきですが……。とはいえ、もしかすると、私の頭が悪すぎて、深謀遠慮を察せていないだけなのかもしれませんね。
<文/布施川天馬>
―[東大卒作家・布施川天馬の教育キャリア通信]―
【布施川天馬】
著述家、教育ライター。 一般財団法人「ドラゴン桜財団」評議員。 1997年生まれ。世帯年収300万円台の家庭に生まれながらも、効率的な勉強法を編み出し、一浪の末東大合格を果たす。著書に最小コストで結果を出すノウハウを体系化した『東大式節約勉強法』、膨大な範囲と量の受験勉強をする中で気がついた「コスパを極限まで高める時間の使い方」を解説した『東大式時間術』など。株式会社カルペ・ディエムにて、お金と時間をかけない「省エネスタイルの勉強法」などを伝える。MENSA会員。(Xアカウント:@Temma_Fusegawa)

