昭和100年目の2026年、二人の時代の目撃者が〈激動の昭和〉と〈混沌する今〉を射抜いた新書『一寸先は闇』を緊急出版。これまで以上に、予測不能かつ瞬時に変貌する世界情勢の中で、変わらぬもの、変わるべきものとは何か。混沌を生き抜く勇気が灯る本書から、一部をご紹介します。
14歳で沖縄戦を経験した母親
五木 昭和の日本を振り返るときには、外からの視線も忘れてはいけないと思います。それは必ずしも「外国から見た日本」という意味ではありません。昭和の日本には、僕が少年時代を過ごした朝鮮半島のほかにも、沖縄、満州といった外部領域がありました。そこから見える戦争、あるいは昭和という時代について語りたいんですよ。
沖縄はあの戦争で悲惨な戦場となり、戦後いったんアメリカの手に渡ってから、昭和47年(1972年)に本土復帰しました。満州は建前上は日本とは別の独立国家だけど、実質的に日本が支配して、多くの日本人が暮らしていたわけです。どちらも「内地」と区別される外部領域ですよね。
佐藤 たしかに、その視点は重要だと思います。
五木 そして佐藤さんのお母様は僕と同世代で、お母様は沖縄戦を経験されたんですよね。
佐藤 沖縄戦のときは母は14歳でしたが、話を聞いていると、それ以降の人生はほとんど余生だったような印象を受けますよ。
五木 ああ、それはわかる気がします。さきほど僕は「戦後の昭和は希薄なものに感じてしまう」といいましたが、それとちょっと似ているかもしれません。物心つくかつかないかのときならともかく、ある程度の自意識を持つ年齢であの濃密な戦中期を過ごすと、敗戦後のことは何か虚しさのようなものを感じるんです。
佐藤 母は久米島()(沖縄本島の100キロメートル西に位置する島)から出てきて、那覇()市内の昭和高等女学校に通っていました。しかし昭和19年(1944年)10月10日の沖縄大空襲で校舎が焼けてしまって、勉強どころではなくなったんですね。
五木 あの空襲で、那覇市は市街地の9割が焼失したとされていますね。
佐藤 ええ。それで3年生と4年生は学徒隊()に入り、1年生と2年生は故郷に帰ることになったんです。母は2年生でした。ところが久米島行きの連絡船もみんな空襲で焼けてしまったので、帰るに帰れない。でも当時、母の8歳上のお姉さんが陸軍第62師団の軍医司令部で軍属として働いていたんです。そのお姉さんが妹を引き受けるといって、母は14歳で辞令を受けて軍属になりました。
五木 14歳で軍属になれるものなんですか?
佐藤 異例のことだと思います。そこで給料をもらいながら軍と一緒に行動していたので、ほかの沖縄県民と比べると、母は日本軍に対して好意的なんですよ。
五木 なるほど、そこは微妙に違いがあるんですね。
自決のために渡された手榴弾
佐藤 14歳の母を雇うように推薦してくれたのは前川さんという大尉()でしたが、この人は沖縄戦が始まる前に亡くなってしまったそうです。その前川さんが、死の直前に母を呼んで、こんな話をしたと母から聞きました。
「オレはもう死ぬ。この戦争は負けるぞ。しかしアメリカは絶対に女子どもに危害を加えないから、おまえは捕虜()になれ。生き残って、いい男と結婚して子孫を残すんだ。こんな戦争に負けたぐらいで日本は滅びない。だから、後は頼むぞ」
これを聞いて、母は「なんという非国民()なのか」と思ったそうです。
五木 それが当時のリアルな気持ちだと思いますね。いまのテレビドラマだったら、14歳の少女は涙ぐんで素直に頷()くでしょう。みんな内心では反戦的な考えを持っていたように描かれますからね。でも、その大尉の言葉に感じた反発が僕にはよくわかります。
佐藤 その陸軍第62師団は、沖縄戦の初動で米軍を迎え撃った部隊でした。「前田高地()の激戦」と呼ばれる戦い(1945年4月25日~5月6日)です。日本軍の陣地があった前田高地(現在の浦添()市)は米軍に「ハクソー・リッジ」と呼ばれました。ハリウッド映画『ハクソー・リッジ』(2016年)で描かれたのがこの戦闘なんですが、母は、この生き残りなんですよ。ガス弾を食らったとき、ガスマスクを装着するのが遅れると死んじゃうんですが、母はギリギリ間に合った。ただ、ちょっとだけガスを吸ってしまったので、戦後にステロイド剤が普及するまでは喘息()で苦しんでいました。
五木 まさに九死に一生を得たんですね。
佐藤 そうです。前田高地の戦いで敗れた後、母は首里()の攻防戦に加わり、次は摩文仁()に下がって徹底抗戦をしたそうです。最後に与えられた指示は、「船かイカダで北部に渡ってゲリラ戦をやれ」というもの。そのときに手榴弾()を2つ渡されました。
「米兵に捕まると暴行されて、耳と指と鼻を切り落とされる。目だけは最後まで残しておくが、とにかくひどい目にあうから、いざとなったらこれで自決しろ」というわけです。
五木 亡くなった大尉とは、全然いうことが違ったんですね。
佐藤 そうなんです。で、不発だったときに備えて手榴弾を2つ渡された。母が「2つとも不発だったらどうするんですか」と聞いたら、「舌を嚙()め」といわれたそうです。
その後、お姉さんとはぐれた母は、最後は摩文仁にたどり着きました。そこで十数名の日本軍兵士たちと1カ月ぐらい過ごしたんですね。そしてある日、歴史に照らせば昭和20年6月22日の未明なんですが、母が井戸に水を汲くみに行ったら下士官が2人現れた。「牛島()司令官と長()参謀長の当番兵だ」と名乗ったそうです。摩文仁丘()の洞窟内の第32軍司令部で割腹かつぷく自殺した牛島満()司令官と勇()参謀長のことですね。その下士官(当番兵)は、自決する2人に促されて、外に出てきたんですよ。母は彼らに「戦争は終わるぞ」といわれたそうです。
五木 実際、その2人の自決によって、少なくとも組織的戦闘は終結しました。もちろん、その後も局地的な戦闘は続きましたが。
佐藤 母はその後も2、3週間ほどガマ(壕)に籠こもっていました。そこでは兵隊たちと「もし米兵に見つかったら、ここには戻ってくるな。そこで自決するか、逃げるかだ」と約束していたそうです。
ところがある日、自動小銃を持って外に出た若い兵隊が、ぶるぶる震えながら戻ってきちゃったんですよ。その横には米軍の人間がいて、「命は助けます。出てきなさい」と日本語で呼びかけた。
五木 途中で捕まって、ガマまで案内してしまったんですね。
佐藤 母はそこで手榴弾の安全ピンを抜きました。でもそれを叩きつける寸前に、アヤメという名の第24師団の下士官(伍長())がこういって止めたそうです。
「死ぬのは捕虜になってからもできる。ここは生き残るんだ」
母は死ぬまでそのときのことを気にしていました。あの伍長が止めなければ、自分は1秒後に手榴弾を爆発させていた。自決するだけではなく、16人の人たちを巻き添えにして殺してしまっただろう、と。
結果的には死なせていないのに、ずっと自分の行動を悔やんでいましたね。
五木 実際にそうやって命を落とした沖縄人が大勢いるわけですからね。

