フィンセント・ファン・ゴッホ《ローヌ川の星月夜》
《ローヌ川の星月夜》制作の裏側を追いかけていくと、星空が彼にとっていかに大切なモチーフだったかが見えてきます。さらには、「夜の方が昼よりもずっと色彩が豊か」と語るとおり、ファン・ゴッホ独自の色彩感覚を垣間見ることも。
星空に魅了されたファン・ゴッホが《ローヌ川の星月夜》を完成させるまでには、何があったのでしょうか。彼が家族や友人に送った手紙を読みながら、解きほぐしていきましょう。
きっかけは移住先アルルの星空
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》, Public domain, via Wikimedia Commons.
1853年、オランダに生まれたファン・ゴッホが画家を志したのは27歳のとき。最初は暗く重厚感のある画風でしたが、1886年にパリに移ると、印象派などの影響を受けてとたんに鮮やかな色を使い始めます。
大都会パリでの生活が合わなかったファン・ゴッホは、1888年に南仏アルルへ移住。そこは彼が憧れたイマジナリー日本よろしく、太陽の光が降り注ぐ明るい土地でした。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》, Public domain, via Wikimedia Commons.
アルルの地にインスピレーションを受けたファン・ゴッホの制作は順調だったようです。実際、《ひまわり》《夜のカフェテラス》など代表作の多くがアルル時代に生まれています。
あるとき、ファン・ゴッホはアルルからさらに南へ向かい、地中海に面した港町に旅行しました。
サント=マリー=ド=ラ=メール(Jean-Louis Vandevivère • CC BY-SA 2.0), Public domain, via Wikimedia Commons.
夜に散歩したときのことを、弟テオへの手紙でこう語っています。
ある晩、人気のない浜を散歩したことがあった。陽気ではないが、かといって淋しくもなく、とても美しかった。
深い青の空には強いコバルトの原色の青より深い青のまだら雲や、また青い白い銀河のような、もっと明るい青雲が浮んでいた。青い空の奥には、星々が明るくきらめき、緑がかった星や黄色や白や、故郷はもちろん――パリの空――よりも明るい薔薇色の星々が、宝石のようにちりばめられていた。
海は非常に深いウルトラマリンで――浜は紫がかった焦茶の調子を帯び、砂丘(高さが五メートルある砂丘)の上の藪はプルシャン・ブルーに見えた。
(1888年6月3日か4日頃)
ファン・ゴッホが絵画のモチーフとして星空を意識し始めたのは、おそらくこの頃です。
サント=マリー=ド=ラ=メール 朝焼けのビーチと街並み(Draupnir3 • CC BY-SA 3.0), Public domain, via Wikimedia Commons.
また、別の絵を描いていても星月夜への想いが頭の中を占めていたようで、画家仲間のエミール・ベルナールには手紙で以下のように伝えました。
だが、いったいいつになったら星月夜が描けるのだろう。
この絵がいつもぼくの心を占めている。ああ全く、J・K・ユイスマンスの『世帯もち』のなかで同じ絵描き仲間の優秀なシプリーンが言っているように、一番美しい絵は寝床のなかでパイプをくゆらせながら夢にえがいて、実際に描かぬ絵だ。自然の何とも言えぬ完璧さ、輝く壮麗さを前にすると何か手が出ない感じを抱くけれども、しかし何とかやっつけなければいけない。
(1888年6月19日頃)
特に「一番美しい絵は寝床のなかでパイプをくゆらせながら夢にえがいて、実際に描かぬ絵だ」という部分、本質を突き過ぎて筆者にも刺さってしまいました…。
こうした言葉の数々から、ファン・ゴッホにとって星空は特別なモチーフだったことが読み取れます。安易に手を出してはいけない神聖さを感じていたのかもしれません。
ゴッホを夢中にさせた夜の色彩とは?
《ローヌ川の星月夜》のモデルとなった場所(Rolf Süssbrich • CC BY-SA 3.0), Public domain, via Wikimedia Commons.
星空に夢中になったファン・ゴッホは、妹ヴィレミーナへの手紙でこんなことを語っています。
このごろぼくは星月夜をどうしても描きたいと思っている。
ぼくにはよく夜の方が昼よりもずっと色彩が豊かであり、もっとも強い菫(すみれ)や青や緑の色合があるように思えることがある。ちょっと注意をしてみたら、ある星たちはレモン・イエローで、また別な星は燃えるようなピンク、あるいは緑、青、ワスレナグサ色の光輝をもっているのがわかるはずだ。
それに青黒い色の上に小さな白い点々をおいただけでは足りぬことはあえていうまでもなくわかりきった話だ。
(1888年9月9日か14日頃)
ウジェーヌ・ボック宛ての手紙に同封されていたスケッチ, Public domain, via Wikimedia Commons.
私たちも、夜空をずっと見つめていると目が慣れるのか、見える星の数が増えたり星が大きく見えたりします。それこそ、赤っぽい・青っぽいという色の違いにも気づけたり。空に夢中になるあまり足元の感覚がなくなって、地面が抜ける錯覚に襲われたりもします。
「夜の方が昼よりもずっと色彩が豊か」と言ったファン・ゴッホも、そんな体験をしたのではないでしょうか? レモン・イエローやワスレナグサ色など、細かな描写はさすがの色彩感覚。別の手紙では赤系の星を「ばら色」と表現したこともあり、花の色にたとえる感性もまたロマンティックです。
見つめるほどに美しさを増し、私たちに迫ってくるような星空。地上に存在しない美を描くためファン・ゴッホは試行錯誤し、スケッチや習作を重ねました。
