13歳で「橋本病」、15歳で「全身性エリテマトーデス(SLE)」と診断され、小児期から長年にわたり難病と向き合ってきた瀬戸さん。多感な時期の闘病は、本人や家族に大きな葛藤をもたらしました。子ども時代の過酷な体験を乗り越え、現在は支援者として活動する瀬戸さんが、患者本人や家族に必要な心のケアや社会的サポートの重要性について、発症当時の具体的なエピソードを交えて語りました。
※本記事は、個人の感想・体験に基づいた内容となっています。2025年11月取材。
体験者プロフィール:
瀬戸麻貴さん
1972年生まれ、神奈川県海老名市在住。1985年(中学1年生)に首元が腫れ、小児科を受診、「甲状腺機能低下症」(後に「橋本病」)と診断される。甲状腺の治療を続ける中、1987年(中学3年生)に高熱、顔と全身の紅斑、関節痛が表れ、「全身性エリテマトーデス(SLE)」が発覚し、ステロイドの服用を開始。現在は通院、服薬治療を続けながらソーシャルワーカー、ピアサポーター(同じ病気や悩みを持つ人を支援する人)として、地域で生きづらさを抱える人たちの居場所「サードプレイスぴあるく」を運営している。
「難病」と向き合う、中学生で知った膠原病の現実
編集部
瀬戸さんが自身の病気に気付き、診断に至った経緯について教えてください。
瀬戸さん
最初は、中学1年の時に甲状腺の病気を発症したことでした。きっかけは、「何だか首の前が腫れているな」という違和感です。触ってみるとしこりのように硬く、確かな大きさを感じました。異変に気付いた母が、すぐに近くの小児科へ連れていってくれて。 その後、定期的に甲状腺の検査を受けていた中で、主治医から「自己抗体(自分の身体の組織を攻撃してしまう抗体)がある」と言われ、「近いうちに膠原病を発症する可能性がある」と事前に告げられました。
編集部
事前にSLEの可能性を示唆されていたんですね。実際に症状が表れたのは、いつごろだったのでしょうか?
瀬戸さん
中学3年の時です。ある日、急に症状が出て、高熱とともに、顔と体が真っ赤になりました。 顔の赤みは蝶形紅斑(ちょうけいこうはん)と呼ばれるもので、頬に蝶が羽を広げたような赤い発疹が表れたんです。腕や足など、体の広い範囲も真っ赤になり、さらに関節痛もひどく、体中がとにかく痛みました。すぐに入院となり、膠原病の一種である「SLE」と診断されました。
編集部
当時の心境はいかがでしたか?
瀬戸さん
医師から「難病」と言われて、「よく分からないけど、何だか大変な病気になってしまった」と思いました。その後、再燃(症状が再び悪化すること)を繰り返す中で、この病気と付き合う大変さを、身をもって実感しています。
「病気でも大丈夫」過去の自分に伝えたい言葉
編集部
診断後、どのような治療方針が示されましたか?
瀬戸さん
主治医からは、まず強力に炎症を抑えるステロイドパルス療法(短期間に大量のステロイドを点滴投与する治療法)を行い、その後は経口ステロイド薬の服薬を継続していくという標準的な治療方針の説明を受けました。 高校1年の時には「ループス腎炎(SLEに伴って腎臓に炎症が起きる合併症)」を合併し、免疫抑制剤も併用することになりました。治療の要となるステロイドについては、「自己判断で中止してはいけない」と強く指導されたことが印象に残っています。
編集部
多感な時期の闘病生活は、周囲との関係にどのような影響を与えましたか?
瀬戸さん
病気になったことに深く悩み、何とか治そうと必死な両親の姿を見ていた私は、『病気の自分は駄目な子どもなんだ』と思い込んでしまい、常に病気のことばかり気にしながら過ごしていました。生活面でも、再燃に伴う年1回の入院や、日光を避ける生活制限、服薬による副作用(顔が丸くなるムーンフェイスや脱毛)など、外見の変化にも苦しみました。当時はウィッグを付けて外出していましたが、常に周囲の視線を気にしており、おしゃれを楽しむ余裕はありませんでした。
副作用のムーンフェイスに悩まされた大学時代
編集部
過酷な状況下で、心の支えになったものは何でしたか?
瀬戸さん
学生時代は家族や入院仲間、医療従事者の存在が支えでした。大人になった今は、病気を特別視せず自然体で接してくれる夫や、同じ病気を抱える仲間とのピアサポート(同じ悩みを持つ者同士の支え合い)が大きな力になっています。もし当時の自分に声を掛けられるなら、「病気になったのは誰のせいでもない。助けが必要なときは周りに頼っていいし、堂々としていて大丈夫だよ」と優しく伝えてあげたいですね。

