ジョルジュ・ルオー 《クマエの巫女》 1947年 油彩/紙(格子状の桟の付いた板で裏打ち) パナソニック汐留美術館
①原点ーーー師ギュスターヴ・モローのアトリエ
ルオーが本格的に画家を目指し始めたのは19歳の時だった。1890年に国立美術学校に入学し、2年後、教授の一人であるギュスターヴ・モローのアトリエに入った。
《ヘロデ王の前で踊るサロメ》(*本展には出品なし)など、聖書や神話を題材に、宝石を散りばめたような装飾的で幻想的な作品を手がけたモローは、教え子たちに自分の様式を押し付けることはなく、一人一人の個性を尊重するタイプの指導者だった。
ルオーもまた、この自由な環境の中でのびのびと才能を発揮し、師モローのマチエール(絵肌)へのこだわりや神話・宗教テーマへの関心を受け継いだ。
(展示風景)(左から二番目)ジョルジュ・ルオー 《ゲッセマニ》 1893年 パナソニック汐留美術館
左から二番目に展示されている《ゲッセマニ》は、モローの教室に入った翌年に描かれたもので、宗教テーマという選択や、油彩の上に線描をほどこす技法にはモローの影響がうかがえる。
深淵を覗き込むような雰囲気や、キリストというモチーフなどは、後のルオーの作品にもつながる要素と言えるだろう。
モローはルオーを可愛がり、ルオーもまた師を深く慕った。
しかし、そんな二人に別れの時が訪れる。1898年、モローが72歳で亡くなったのだ。遺言により、彼の邸は美術館として公開され、その館長としてルオーが指名されていた。尊敬する師の喪失はルオーに大きな衝撃を与えた。彼は国立美術学校を退学し、しばらく制作から離れることとなる。
そんなルオーを支え、励ましたのはモローの教室で共に学んだアンリ・マティスら学友たちだった。彼らと共にパリのクリシー広場近くに構えた共同アトリエを舞台に、ルオーは少しずつ制作へと立ち返り、新たな画風へと踏み出していく。
②ルオーの転換点
美術の伝統において、色彩とは現実のモチーフを正確に再現するためのツールだった。しかし、20世紀初頭のマティスたちはその伝統に挑戦し、打ち破ろうとしていた。
彼らは鮮やかな原色を多用することで、純粋な色彩が持つ美しさや感情に訴えかける力を前面に打ち出す表現を追求した。その過程で、モチーフの形も大胆に単純化され、時に歪められた。
1905年のサロン・ドートンヌで、「フォーヴィスム(野獣派)」と軽蔑をこめた命名がなされたマティスらの新しい表現は、ルオーにとっては、新たな世界の可能性を垣間見せてくれるものでもあった。
彼は赤や青、ピンクなどの色彩やモチーフの大胆なデフォルメを取り入れていく。また、共同アトリエでモデルになっていた娼婦をはじめ、道化師や裁判官など新たなモチーフのレパートリーを増やしていったのもこの頃である。
ジョルジュ・ルオー 《二人の娼婦》 1906年 水彩、パステル/紙 パナソニック汐留美術館 ©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2026 E6257
また、1906年頃からは陶磁器の絵付けにも挑戦している。今回の展覧会には、2021年度に美術館のコレクションに加わった《ティーセット》(1911年)も展示されており、ルオーの精力的な挑戦ぶりを伺うことができる。
(展示風景)ジョルジュ・ルオー 《ティーセット》 1911年 パナソニック汐留美術館(筆者撮影)
新しいことへの挑戦は、その人の可能性や世界を大いに広げるだけではない。そうした経験はルオーの内部に確かに蓄積され、後の表現を支える養分となっていく。
実際に1907年、ルオーの絵付けした陶器がきっかけとなって、画商アンブロワーズ・ヴォラールと出会うこととなる。ルオーの作品に惚れ込んだヴォラールは作品を買い上げ、1925年からは自邸の最上階をアトリエとして提供した。
頼れるスポンサーを得たルオーは、充実した環境の中で、自らの表現世界を深めていく。
その時期の成果を示す作品の一つが《女曲馬師》だ。
(展示風景)(左から2番目)ジョルジュ・ルオー 《女曲馬師(人形の顔)》 1925年頃 パナソニック汐留美術館
海の底を思わせる青緑色の背景に、帽子と赤い花飾りを身に着けた愛らしい少女が描き出されている。
彼女は歯を見せ笑っているが、大きな目は黒々として、感情がほとんど読み取れない。全体が寒色系の色彩でまとめられているため、ひんやりとした雰囲気が漂い、まるで深淵をじっと覗き込んでいるかのような神秘的な感覚を覚える。
マティスらフォーヴィスムの色彩が、エネルギーの外への放出なら、ルオーのそれは、内側の暗く神秘的な深部へといざなうものと言えよう。
まさにルオーの表現が結晶した一つの到達点であろう。
