明治時代、日本画家たちは一つの課題と向き合っていた。
明治という新しい時代にふさわしい日本画とは、どのようなものなのか。
その答えを得るためには、受け継がれてきた伝統にとらわれているだけでは足りない。流派の枠組みを越えて学び、時に既成の枠を壊すほどの覚悟をもって向き合う必要もあっただろう。
今村紫紅も、またそのような気概をもって駆け抜けた一人だった。
今村紫紅《熱国之巻(朝之巻)》 紙本着色・一巻(図は部分) 大正3年(1914) 45.7×954.5cm 東京国立博物館 ※国指定重要文化財 (展示期間:4月25日~5月20日) ※《熱国之巻(暮之巻)》は5月22日~6月3日の展示 Image: TNM Image Archives
36年という短い生涯の中で、彼は琳派や文人画などの日本の古画だけではなく、印象派など西洋の技法も貪欲に吸収し、歴史画や物語画、さらには風景画へと表現の幅を広げていった。
「暢気(ノンキ)に描け!」
「自由も、新も我にあり!」
彼が仲間や後輩に語った言葉からは、溢れ出さんばかりのエネルギーが感じられる。
そんな今村紫紅の没後110年を記念し、実に42年ぶりとなる展覧会が紫紅の生地にも近い横浜美術館で開催されている。その見どころとともに、紫紅の濃密な表現世界を紐解いていこう。
歴史画家としてのスタート
今村紫紅は1880年に横浜の提灯問屋の三男として生まれた。1897年、17歳で兄と共に上京し、歴史画の大家・松本楓湖に入門する。師から与えられる粉本(絵手本)をひたすら模写する一方、兄からは郊外への写生に連れ出された。
前者を通して、古画の技法や当時の風俗を学んでいった。また兄の指導は、走る馬を描くために自らも走りながら描かせるなど厳しいものだったが、それはただ与えられた型をなぞるだけで満足するのではなく、そこから一歩踏み出す姿勢を身につける礎ともなっただろう。
第一章のタイトルにもなっている、紫紅自身の言葉「古画のよい処を分解して、その後を追え!」も、この経験に根ざしたものだったのではないだろうか。
1898年からは、「千紫万紅」から二字を取った「紫紅」を自らの号として使い始める。同年10月には日本美術協会で入選する。1900年に入会した紫紅会(後に紅児会と改称)では、安田靫彦と出会い、意気投合し、生涯の友となる。
そして、歴史画の分野で頭角を表し、22歳で日本美術院の正会員になるなど、順調にキャリアを重ね、地位を確立していく。そうした歩みの中で生まれた歴史画の一例として、第一章の〈鞠聖図〉に目を向けてみたい。
今村紫紅《鞠聖図》 紙本着色・二曲屏風一隻 明治44年(1911) 147.4×145.6cm 横浜美術館
この作品は、平安時代後期の公卿で蹴鞠の名手として知られた藤原成通の故事を主題としている。成通が、1000日間休まず蹴鞠の修行を行う千日行を達成した夜、童子の姿をした3人の鞠の精が現れて彼を祝った。
成通の日記によると、鞠の精たちは人間の頭と、猿の手足と胴体を持った異形の姿だった。しかし、紫紅は描くにあたって鞠の精たちを可愛らしい子猿の姿に置き換えている。さらに画面の右端にやや寄せるようにして2匹だけを描き、まだ現れていない3匹目の存在を想像させる構成になっている。
これらの工夫に加え、抑えた淡い色調と余白を大きくとった構図によって、作品全体が和やかな雰囲気に仕上がっている。
成通と鞠の精の故事は、それまでにも画題として描かれてきたものではあるが、紫紅は伝統を踏まえながらも独自の解釈によって、歴史画というジャンルに新しい息吹を与えようとしたのである。
琳派への傾倒
1911年、豊臣秀吉の「醍醐の花見」に材を取った屏風作品〈護花鈴〉が、紫紅の画業に大きな転機をもたらす。
実業家・原三溪の目にとまったのだ。桃山時代の文化に傾倒していた三溪は、当時の華やかな空気を現代的に捉えた〈護花鈴〉を高く評価し、以後強力な後援者(パトロン)となる。
そして、古美術のコレクターでもあった原三渓との交流を通し、紫紅は彼が所蔵する南画(文人画)や琳派の作品をはじめ名品の数々に触れ、大きな刺激を受けることとなる。特に彼が傾倒したのは、俵屋宗達だった。
俵屋宗達は、現代でこそ琳派の祖として位置づけられているものの、明治・大正時代当時はあまり注目されていない存在だった。
だが、紫紅は宗達の大らかさな筆致や斬新な構図に惹かれただけでなく、王朝文化を踏まえながらも、己の感性によってアレンジを加え、新たな造形へと昇華させたその姿勢にも本能的に共感していたのだろう。
今村紫紅《雷神》 紙本金地着色・色紙 大正5年(1916) 21.0×18.0cm 山口蓬春記念館
宗達の代表作であり、琳派のアイコンともなった風神雷神のモチーフに何度も挑んでいることは、その傾倒ぶりを示してもいる。また、宗達や、宗達に私淑した尾形光琳が取り上げた伊勢物語の主題をも、紫紅は自分なりの解釈で新たに描き出した。
この〈伊勢物語図〉は、その一つである。
(展示風景より)今村紫紅、<伊勢物語図>(左隻)、明治44年頃、大阪市立美術館(筆者撮影)
(展示風景より)今村紫紅、<伊勢物語図>(右隻)、明治44年頃、大阪市立美術館(筆者撮影)
(展示風景より)今村紫紅、<伊勢物語図>(左隻)、明治44年頃、大阪市立美術館(筆者撮影)
六曲一双の屏風には、白馬を引いた老人と、荒れ果てた垣根の向こうを伺い見る旅装束の男、お供の童子が描かれている。
パターン化され、リズミカルに配された草花や太い金泥の線で表された衣服のひだなどは装飾的で、紫紅が琳派の先人たちの表現を確かに学び取っていたことがうかがえる。
〈伊勢物語図〉というタイトルではあるが、光琳の〈杜若図屏風〉や宗達の〈蔦の細道図屏風〉のように、具体的にどの場面が描かれているのか、特定するには決め手にやや欠ける。
むしろ、「東下り」(9段)や「武蔵野」(12段)など、複数のエピソードを想起させるモチーフを描き込むことでオーバーラップさせ、『伊勢物語』全体に流れる寂寥感というものを表現しようとしていたのではないか、とも考えられる。
