ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山とアルク川渓谷の高架橋》(1882–85年頃)。手前の緑と高架橋が奥行きをつくり、山が画面の奥にどっしりと座っている。セザンヌが繰り返し描いた山の、比較的初期の一枚。, Public domain, via Wikimedia Commons.
あの山は、毎回ちがう
セザンヌが何度も描いたのは、南フランス、エクス=アン=プロヴァンスにそびえるサント=ヴィクトワール山です。
標高はおよそ1000メートル。地中海の強い陽射しを受けて、石灰岩の白い山肌が空に浮かび上がる。セザンヌは自宅やアトリエの窓越しに、あるいは野原にイーゼルを立てて、この山を繰り返しキャンバスに描きました。
ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山》(1897年頃), Public domain, via Wikimedia Commons.
ところが作品を並べてみると、驚くべき発見があります。同じ山を描いているはずなのに、まるで別の絵なのです。
朝の光のなかでは山肌が青みを帯び、夕方にはオレンジ色に染まる。晴れた日は輪郭がくっきり立ち上がり、曇りの日には山が空に溶けていくように見えます。
季節が変わると手前にある木々の色も変わり、山までの距離感さえ違って感じられる…
ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山》(1886-87年頃), Public domain, via Wikimedia Commons.
しかもセザンヌはどの一枚にも「これで完成だ」とは思えなかったようです。何度描いてもまだ足りない。友人への手紙にはこんな言葉が残っています。
「自然の前では、同じ瞬間は二度と来ない」。
同じ山を見ているのに、毎回違うものが見える。
彼が何度もキャンバスに向かったのは、決して「うまく描けなかったから」ではなく、目を向けるたびに、世界は違う姿を差し出してきたからでした。
こうした感覚を哲学の言葉で丁寧にすくい上げた人物がいます。フランスの哲学者であるモーリス・メルロ=ポンティです。
私たちは「身体ごと」世界を見ている
フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティ。「知覚」を生涯の主題とし、セザンヌの絵画にその本質を見出した。, via Wikimedia Commons.
メルロ=ポンティは、サルトルやボーヴォワールらと並んで、戦後の思想界を牽引した人物です。
サルトルが「自由」を、ボーヴォワールが「性(ジェンダー)」を重視したのに対し、メルロ=ポンティが生涯をかけて探求したのは「知覚」でした。
「私たちはどうやって世界を見ているのか」という課題に向き合い続けたのです。
彼が主張する「見る」とは目が光を受け取って、脳に情報を送るような機械的な働きではありません。もっと身体的で生々しい経験です。
たとえば、毎朝利用する通勤路を思い浮かべてみてください。
すっかり見慣れた景色のはずですが、寝不足の朝は道がやけに長く感じられます。
よく晴れた日には同じ道が広々と明るく見える一方、仕事で嫌なことがあった日の帰り道には、商店街の灯りがどことなく寂しく映るかもしれません。
同じ道を歩いているのに毎回違う景色が見えるのは、道が変わったからではなく、歩いている「自分」自身が変化したからです。
身体の疲れや気分、天気、あるいはそのとき頭に浮かんでいること。そうした要素がすべて入り混じって、いま目の前にある「見え方」をつくっています。
私たちは目だけで世界を捉えているわけではなく、身体ごと世界と関わり合っている。だからこそ同じ景色に向き合っても、毎回違う姿が現れてくる。
メルロ=ポンティはこのように考えました。
