朝の山と夕方の山は「違う山」
メルロ=ポンティは1945年のエッセイ「セザンヌの疑い」のなかで、知覚の本質をセザンヌの作品から見出そうとしました。
セザンヌが同じ山を幾度となく描いたのは、山を見るたびに、そこに別の姿が現れてくるからでした。
山を見るたびにもたらされる変化からセザンヌは目をそらさず、その瞬間の姿をキャンバスへ描きとめようとしました。
その結果として、同じ山を何十点も描くことになったのです。
ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山》(1902–06年頃)。晩年の作品では輪郭が溶け、色の重なりだけで山が浮かび上がる。初期の一枚(画像01)と見比べると、同じ山とは思えない。, Public domain, via Wikimedia Commons.
世界は「生まれ直す」
私たちの日常においても「まったく同じもの」など存在しないのかもしれません。
子どものころは駆け回れるほど広く見えた実家の玄関が、大人になって帰省するとひどく窮屈に感じられる。
学生時代にただメロディが好きで聴き流していた曲が、仕事で壁にぶつかった夜の帰り道、まるで自分のために書かれたかのように深く胸に突き刺さる。
メルロ=ポンティに従うなら対象が変わったのではなく、私自身の状態や積み重ねた時間、そして身体が変化したからです。
見たり、聴いたり、触れることで、私たちの身体は少しずつ変化する。だからこそ、世界の見え方も常に更新されていきます。
メルロ=ポンティの言葉を借りるなら、私たちの知覚が変化するたびに、世界は新しく「生まれ直して」いるのです。
そう考えると私たちが「すっかり見慣れた」と思い込んでいる景色など、本当はどこにもないことに気付かされます。
