昼下がりの羞恥プレイ
事件は土曜日の昼下がりに起こった。
私は、とある書店の中のカフェスペースで仕事をしようとしていた。
普段はビジネスパーソンだらけの場所なのだが、土日は受験勉強をする中高生や、読書をしているカップルなども多い。
図書館ほどではないけれど、わりと静かな場所で、落ち着いて作業ができるお気に入りの場所だ。
席を確保し、イヤフォンを外し、ケータイをテーブルの上に置いた。そして、バッグからパソコンを取り出そうとしたときに、事件は起こった。
私の肘がケータイの画面にあたったらしく、それまでイヤフォンで聴いていた小説の一節が、音量MAXのスピーカーモードでカフェに響いたのだ。
想像してほしい。
仕事に勉学に勤しむ老若男女の静寂の中に、突然、大音量の音声が流れる様子を。
そして、高橋一生さんのセクシーボイスで朗読された小説の一節は、よりによって以下の部分だった。
「私はそのへんの男と誰彼となく寝てまわったりはしない。ひとつの時期に一人としかセックスはしない。だからあなたとも、ある時点からはそういうことをしなくなった。そうよね?」
村上春樹さんの『騎士団長殺し』のクライマックスである。離婚を切り出した主人公の妻が、自分の貞操観念について語るシーンだ。
「ひとつの時期に一人としかセックスはしない」
高橋一生さんの吐息混じりの声が、カフェの静寂を破る。
店のあちこちで「え?」という声が聞こえた。
勉強している学生は驚いて顔をあげるし、若いカップルはくすくす笑い出すし、私は慌ててiPhoneの再生ボタンを止めようとしたけれど、もうその時は店内のみなさんに発信源がバレていた。
50歳にもなって、こんな羞恥プレイをかましてしまうなんて、思ってもいなかった。耳の先までかーっと熱くなったけれど、走って逃げるわけにもいかない。
私は周囲のみなさんに「すみませんすみませんすみません。とくに、近くの席で子どもに勉強を教えていたお父さん、ごめんなさいごめんなさい」と心の中で唱えながら、パソコンを開いた。
そして、思う。
老眼のバカーっ!!!
という話を、聞いてもらえますか?
最高も最悪もだいたい同じ
あれは45歳になった頃からか。
同年代の友人たちと話をするとき
「ねえ、はじまった?」
と聞かれれば、それはもれなく老眼を指した(ちなみに現在、「ねえ、終わった?」と聞かれたら、それは生理のことである)。
白髪かたるみか老眼か。もしくはその全部か。
私たちが最初に感知する「老化」のファーストステップは、そのあたりではないかと思う。
私の場合は、老眼ファーストだった。
それはコロナ禍に一気に進行した。
家でごろごろしながらスマホをいじっていた時間が長かったからか、単にそういう歳になったからか、どんどん文字が見にくくなる。書籍の校正チェックも、文字がかすんでままならない。仕事に差し障るレベルだ。
パピプペポとバビブベボをしょっちゅう間違える。
だいすき! と打ち込んだつもりが だいすけ! となっていたこともある。だいすけって誰だよ!
ライターさんとのチャットでは、
「昨日の取材はどうだった?」
「最悪でした」
「あ、それはよかった!」
「あ、いえ、『最高』じゃなくて『最悪』です」
「う……。老眼のバカ」
というやりとりがあった。
老眼は、文字通り、世界の解像度を下げる。最悪も最高もだいたい同じに見える。ライターとして、編集者として、さすがにこれはマズイと思った。
そこで、歳上の敏腕編集者のお姉様たちに相談したら、みなさま、手ぐすねひいてアドバイスくださったよ。
「ああ、もう、それ、諦めなさい」
「余計なプライドは捨てて、さっさと老眼鏡を買いなされ」
「安いのでいいから、全部の部屋に老眼鏡を備えよ」
「一度老眼鏡使ったら、なんで今まで使わなかったんだろうというくらいに、ラク」
メディアで仕事をしているお姉様たちは、普段から文字を読む機会が多い。だから、老眼対策も一通り試し終えた上でアドバイスをくださる。
中でもありがたかったのは「コンタクト用の老眼鏡がある」と、「遠近両用メガネではなく、中近両用メガネを買うといい」だった。
私は極度の近視だ。普段はコンタクトだが、裸眼で視力検査をすると0.01である。だから、老眼鏡だけを使うと遠くのものがまったく見えない。
そういう人におすすめと言われたのが「コンタクトの上から使う老眼鏡」と、「裸眼時に使う中近メガネ」のW使いである。
とくに「中近メガネ」は、遠近両用メガネほどの差異がなくて、遠い場所も近い場所も、違和感なく使える。外出のない日は、このメガネだけで一日過ごしている。
ただ、面倒なのは、どのメガネがどのタイプだったか、すぐに忘れることだ。
現在我が家には
(1)コンタクト用の老眼鏡
(2)中近両用老眼鏡
(3)普通のメガネ
がある。そして、これらをしょっちゅうかけ間違える。コンタクトの上から(3)をかけてしまったりして、くらっとすることもよくある。
今度作るときは、赤青黄色とか、わかりやすいフレームの色にしようかな。
加えて、サングラスが必要なくらい紫外線が強い場所で本を読めないのも厳しい。スポーツをするときもメガネだと面倒だ。
夜中も走り続けるような長距離のトレイルマラソンをするお姉様は、老眼が進んでからは片方だけコンタクトをつけて走っているらしい。裸眼の目で地図を読み、コンタクトの目で走る道を見るのだという。
みんな、そうやっていろんな不具合と闘いながら生きているのだと思うと、なんだか自分にも人にも優しくなれる気がする。

