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草間彌生は不可能を可能に塗り替える。映画『草間彌生∞INFINITY』で苦悩と功績を追う

草間彌生草間彌生, Public domain, via Wikimedia Commons.

映画『草間彌生∞INFINITY』と天才芸術家の苦悩

参照:『草間彌生∞INFINITY』

世界的な前衛芸術家として、草間彌生は今なお鮮烈な輝きを放ち続けています。70年以上にわたる歩みを、膨大なアーカイブと証言で追ったドキュメンタリー映画『草間彌生∞INFINITY』を観ると、その表現に対する見方が変わるかもしれません。

長野県松本市で有数の種農家に生まれるも、不仲な両親のもとで、母から絵を破かれるなどの過酷な環境にあった草間彌生。強迫神経症による幻覚や幻聴から逃れるため、湧き上がるイメージを素早くキャンバスに描き留めるスタイルを確立していきます。そして芸術家として生き抜くために、憧れの画家ジョージア・オキーフの助言を得て、1958年に渡米を果たしました。

960px-Georgiaokeefeカール・ヴァン・ヴェクテン《ジョージア・オキーフ》(1950年)/アメリカ議会図書館 アメリカで抽象画を描いた最初期の画家とされている。草間彌生に強い影響を与えた。, Public domain, via Wikimedia Commons.

ニューヨークへ移住した彼女を待ち受けていたのは、性差別や人種差別の壁でした。女性芸術家が単独で個展を開くことすら不可能な時代、画廊から相手にされず、涙を流す日もあったそうです。

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努力を続けた結果、彼女の革新的なアイデアはアート界を驚かせました。しかし、男性芸術家たちにアイデアを模倣され、評価を奪われるという苦悩に見舞われます。そして度重なる絶望からアトリエの窓を塞ぎ、自殺未遂を繰り返すほど精神的に追い詰められ、1973年に失意の中で日本へ帰国しました。

日本の保守的な美術界からも拒絶され、精神病院に入院しながら創作を継続する日々。再び世界に草間彌生を知らしめたのは、第45回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展での個展でした。

かつての孤独な闘いを経て、草間彌生は国境を超えて人々を魅了する巨匠となり、その功績が正当に評価されています。今なお「芸術の力で世界を平和にしたい」と描き続ける作品の数々は、命の炎を燃やし尽くすような、純粋なる平和への祈りそのものなのではないでしょうか。

草間彌生作品の過去から現在まで

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1935年、小学校入学のころ、強迫神経症の恐怖から逃れるため、草間彌生は絵を描き始めました。「草間彌生=水玉や網模様」という印象を持っている方も多いと思いますが、そうしたモチーフはこのころから出現したそうです。それでは草間作品はどのような変遷を辿ってきたのでしょうか?

活動初期(〜1958年)

1941年に松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に入学すると、同校教師だった地元の画家、日比野霞径(ひびのかけい)に日本画を習いはじめます。当時から才能のあった草間彌生は、1945年に「第一回全信州美術展覧会」入選、翌年に「第二回全信州美術展覧会」入選を果たしました。

1948年、松本高等女学校を卒業すると、京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)の4年最終課程に編入し、日本画を学びます。翌年に卒業しますが、旧態依然な指導方法や画壇制度に失望し、松本の実家にこもって創作活動を続けました。

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1949年には「第2回創造美術展」で日本画《残夢》が入選しました。実家が所有していた採種場の記憶がベースになっているそうです。グロテスクな向日葵にはドット状に種が描かれていて、現在の作風へつながる強迫的な内面世界がすでに顔を覗かせています。どこかシュルレアリスム(超現実主義)の要素も感じられる作品です。

ニューヨーク移住後(1958年〜1973年)

1958年に渡米すると、画風は抽象化へ向かいます。巨大なカンバスを微細な網目で埋め尽くす《無限の網(インフィニティ・ネット)》シリーズは、彼女が注目されるきっかけとなりました。

1960年代に入り、草間彌生はソフト・スカルプチャー作品(布やゴムなど柔軟性の高い素材を使用した立体作品)を手掛けはじめました。《集積 No.1》(1962年)、《集合ー1000艘のボート・ショー》(1963年)、《フラワー・オーバーコート》(1964年)などが知られています。

例えば《集合ー1000艘のボート・ショー》は、ニューヨークのガートルード・スタイン画廊で開催した個展のタイトルにもなりました。ボートとオールを布製の突起物がびっしりと覆った作品です。さらに、それを撮影した写真999枚を壁、床、天井に貼るという演出もなされています。ポップアートの旗手、アンディ・ウォーホルも影響を受け、代表作《Cow》の写真を展覧会場の一面に貼りつけたそうです。

さらにインスタレーションやパフォーマンスへと表現は過激に進化していきます。1966年、第33回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展にゲリラ参加し、無許可で1500個のミラーボールを並べた《ナルシスの庭》を発表しました。美術界の商業主義を批判し、ボールを1個約2ドルで販売したものの、主催者によって禁止されたというエピソードもあります。

当時の世相や社会状況を反映したハプニング(偶発性を作品にする前衛的な芸術表現)も数多く実施しました。1968年、ニューヨークのウォーカー通りで行われた「ホモ・セクシュアル・ウェディング」は、全米初の男性同士の結婚式としても有名です。

しかし、こうした活動によって、草間彌生は「世界的ハプニングの女王」として日本でスキャンダラスに報じられてしまいます。母校の卒業生名簿から削除された上、家族からの送金を停止され、故郷から拒絶されたような気持ちだったのではないかと思います。

日本帰国後(1973年〜)

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1973年の帰国後は、精神的苦悩の中で、コラージュや小説など、死生観を反映した表現技法へと移行します。小説『クリストファー男娼窟』(1984年発表)は「第10回野性時代」新人賞を受賞し、審査員の宮本輝や中上健次、村上龍らから絶賛されました。

そして1980〜90年代にかけて、幼少期に親しんだ日常的なモチーフを再解釈した《南瓜》シリーズが完成します。鮮やかな黄色に黒の水玉を配した作品群は、彼女を象徴するアイコンとなりました。

2000年代になると、パブリック・アートや野外彫刻を展開します。松本市美術館には《幻の華》が、直島や福岡には立体作品《南瓜》が設置されました。熊本市現代美術館などではコミッション・ワーク(委託制作)として《ミラールーム》が常設されており、草間作品が美術館にとってのステータスになっています。

さらに2000年代は長年の活動が公的に評価された時期でもあります。 2003年に「フランス芸術文化勲章オフィシェ」受勲、「長野県知事表彰(芸術文化功労)」受賞の後、2009年には女性画家として4人目の「文化功労者」に決まりました。

初期の幻覚の表現から、強烈なエネルギーと愛、そして世界平和の祈りが壮大に花開く、鮮やかな世界観へと進化を遂げた草間彌生。現在もなお、精力的に新作を制作し続けています。

配信元: イロハニアート

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