《無限の網》で切り拓いたニューヨーク時代
28歳の草間彌生は、わずかな所持金を手にアメリカへ移住しました。
敷金20ドルで借りた部屋には風呂がなく、創作活動をするには狭かったそうです。屋で拾った魚の頭と八百屋が捨てたキャベツを煮込んだスープで飢えを凌ぐような日々。そんな中で描きはじめられたのが、彼女の代名詞になった《無限の網(インフィニティ・ネット)》シリーズでした。
渡米から約2年後、ブラタ画廊にてニューヨークでの初個展を開催します。そこで発表されたのが、無焦点のモノクローム絵画でした。画廊の白い壁面とほぼ同じ大きさだったため、まだ展示が始まっていないと誤解した来場者も多かったといわれています。
『芸術新潮』(1961年5月号)に掲載された記事で、草間は次のように語りました。
「大きなスタジオを借り、脚を立てねば届かぬほどの真っ黒い大キャンヴァスに立ち向かって、殆ど何もトーンのない望みうる限りの細い何万という微粒子の白いネットを一面に描き出した。毎朝暗い中に起き夜中まで食事や便所以外は、明けても暮れても描き続けて、スタジオのどの絵をひっくり返してもアミ以外何もない。」
網のモチーフは、太平洋を横断する時に機上から見た海の波や、故郷の松本の河原で眺めた小石の集合からヒントを得たとのこと。それと同時に、以前の作品に見られた叙情性(自分の感情を述べ表すこと)を消し、表現主義的な要素をなくすことで、抽象表現主義への反抗心を見せました。
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キャンバスの端から端まで根気強く描き込まれた網目は、当時のアート界に強烈な衝撃を与えました。新人にもかかわらず、現地メディアの展評で取り上げられたほか、ミニマル・アートの先駆者、ドナルド・ジャッドが絶賛して作品を購入したほどです。
大都会ニューヨーク。草間は自らの身を削りながら、「無限の網」という唯一無二の表現で、ニューヨークのアートシーンを圧倒し、世界へと漕ぎ出していったのです。
草間彌生は命の火を燃やし、愛と平和を祈り続ける
映画を通じて草間彌生の壮絶な挫折や孤独を知ることで、作品に宿る生命力の根源に触れることができることでしょう。東京都新宿区の草間彌生美術館では年2回、展示会が開催されており、名作の数々から彼女が訴え続ける「世界平和」と「人間愛」のメッセージを肌で感じられます。深い闇を通り抜けた先にある、平和への祈りとエネルギーを、みなさんもぜひ体感してみてくださいね。
