デュシャン《泉》が問う芸術を芸術にしている「枠」
私たちは普段、美しい絵や精巧な彫刻それ自体に価値があると思っています。色使い、構図、技術など、作品の中身が優れているから「芸術」である。デュシャンの便器はその前提に疑問を突きつけたのです。
ここで一つの補助線を引いてみましょう。フランスの哲学者ジャック・デリダは「作品の周辺にあるもの」に注目しました。
ジャック・デリダ(1930–2004)。「脱構築」で知られるフランスの哲学者。作品そのものではなく、作品を取り囲む「枠(パレルゴン)」に注目し、芸術の境界線を問い直した。, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons.
たとえば、美術館に飾られた一枚の風景画を思い浮かべてください。
私たちは、絵が「作品」だと信じています。では、絵を囲んでいる額縁はどうでしょう。タイトルと作者名が書かれたプレート、絵を照らす照明、美術館の白い壁はどうでしょうか。
多くの場合、それらは作品の「外側」として扱われます。デリダはこうした境界線上にあるものを「パレルゴン(枠)」と呼びました。額縁を外したら、絵はただの紙切れに見えるかもしれない。美術館の壁から外して道端に置けば、名画だと気づく人はいるのだろうか。
私たちに「これは芸術だ」と感じさせているのは、作品の中身だけではなく、作品を取り囲む「枠組み」でもあるのです。
デュシャンの《泉》は、この枠組みの力を極端な方法で露呈させました。タイトル、サイン、台座、展覧会という、たったそれだけで便器ですら「芸術かどうか」の議論に載ってしまう。デュシャンは意地悪く、そして遠慮なく表現してみせたのです。
納得しなくても、目は変わる
額縁・照明・美術館の壁に囲まれているかどうかで、同じ絵でも受ける印象はまるで違う。デリダはこうした「作品を取り囲むもの」をパレルゴン(枠)と呼び、作品の内側と外側の境界線を問い直した。(イメージ)
ここまで読んでも「やっぱり便器は芸術じゃない」と感じる人がいるかもしれません。それでいいのだと思います。
デュシャン自身、便器を「美しい芸術作品」として鑑賞してほしかったわけではないでしょう。彼が暴いてみせたのは、私たちが何かを「芸術だ」と感じるとき、作品の中身だけでなく、その周囲の枠組みに大きく左右されてしまうという事実でした。
美術館で名画の前に立って、感動する。そのとき私たちは、本当に絵の中身だけに心を動かされているだろうか。
「ルーヴル美術館にある」という場所の重み、「レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた」という知名度など、そうした「パレルゴン(枠)」を全部取り払い、無名の絵として道端に置かれていたとしたら、私たちは同じように足を止めるでしょうか。
便器が芸術かどうかに、答えを出す必要はありません。次に美術館で絵の前に立ったとき、自分が何に反応しているのか少しだけ気にしてみてください。
作品を見る目が以前とは違っていることに気づくはずです。
