驚きはしましたが、今の私には他人の家庭の事情に深く入り込む余裕はありませんでした。サトシさんの奥さんは、いつも物腰が柔らかく、家庭的な方だという印象があったからです。しかし、太郎の怒りは収まるどころか、なぜかその矛先を、今まさに育児に奔走している私に向けてきたのです。
「信じられないよな。あいつ、必死に働いて家を建てて、子供の教育費だって稼いでたんだぞ。それを裏切って、どこの馬の骨とも分からん男と寝るなんて、女ってのはこれだから信用できない。愛想が良ければ良いほど、裏で何してるか分かったもんじゃないな」
太郎は一歩、私に詰め寄りました。綺羅里が驚いて泣き声を強めましたが、彼は一瞥もくれません。
「おい、光里。お前も、もし不倫なんてしてみろ。徹底的に追い詰めてやるからな。慰謝料も、親権も、お前の居場所も、全部奪ってやる。親戚中にお前の醜態を言いふらして、二度と表を歩けないようにしてやるよ。分かってるか? 軽い気持ちで男と連絡でも取ってみろ。その瞬間がお前の人生の終わりだと思え」
その言葉の冷たさに、私は背筋が凍るような思いがしました。
私にはやましいことなど何一つありません。毎日、睡眠時間を削って綺羅里の世話をし、光次の幼稚園の準備をし、栄養バランスを考えた食事を作る。自分の美容院に行く時間すら惜しんで家族のために尽くしている自負がありました。それなのに、まるで私が「潜在的な裏切り者」であるかのような言い草。それは、私のこれまでの献身をすべて踏みにじる屈辱的な言葉でした。
「……何言ってるの。そんなことするわけないじゃない。そんな暇があると思う? それより、光次が泣いてるから少し構ってあげてよ。子供たちが不安がってるわ」
私はイラだちを抑え、努めて冷静に返しました。しかし、指先が微かに震えているのを隠せませんでした。
「フン、分かればいいんだ。釘を刺しておかないとな。サトシの嫁みたいなクズにはなりたくないだろ。お前はただ、俺の言うことを聞いて、大人しく家を守ってればいいんだ」
太郎は吐き捨てるように言うと、着替えのために寝室へ消えていきました。
残された私は、震える手で再びお玉を握りました。肉じゃがの甘い匂いが、今はひどく胸を悪くさせます。
あんなに正義感ぶって、私を脅すようなことを言った彼。
その言葉が、一週間後に自分自身に突き刺さる鋭利な刃になるとは、この時の彼は夢にも思っていなかったはずです。彼は私を「支配」するためにその言葉を投げたのでしょうが、それが自分自身の首を絞める絞首刑の縄になるとは、皮肉なものでした。
正義感?脅し?最低な夫の裏の顔
今、自分の家庭のことで精いっぱいの光里にとって、他の家庭を気にする余裕はありません。家族のために尽くす日々なのに、「もしも」の話で強い口調で責められたら、たまったものではありません。ですが、夫が「不倫を許さない」と妻を脅したのは、別の理由があったのです。
ある日、スマホをロックせずに眠ってしまった夫。光里は突如、不倫断罪されたことを思い出し、「もしかしたら彼の中に後ろめたい気持ちが隠されているのでは」と疑います。そしてスマホを開くと、不倫の証拠が次々と出てきたのです。
偽善者ぶってた夫の正体
「これ、何? 夏菜子って誰? 説明してよ! 今すぐ!」
太郎の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かりました。彼は飛び起き、奪い取るようにスマホを掴みましたが、もう手遅れです。
「これは……その、違うんだ、光里。遊びっていうか、魔が差しただけで……」
「遊び!? 出産前から今までずっと続いてて、ホテルに行ったり旅行に行ったりしてて、何が遊びなのよ! 立ち会えなかったあの日も、彼女といたのね!? 出張だって言ったあの日も!」
私は半狂乱で泣き叫びました。隣の部屋で子供たちが起きるかもしれないという配慮すら、今の私にはできませんでした。
「一週間前、なんて言った? 不倫したら追い詰める? クズ? 自分のことじゃない! よくもそんな口が叩けたわね! サトシさんの奥さんを笑える立場なの!? あなたこそが、この家で一番のクズよ!」
私は涙でぐしゃぐしゃになりながら、震える声で告げました。
「離婚してください。それが嫌なら、今すぐその女に慰謝料を請求する。どちらか選んで。もうあなたの顔を見るのも汚らわしい」
すると、太郎は信じられない言葉を口にしたのです。
「離婚は嫌だ。やり直したい……。でも、彼女を責めるのはやめてくれ。彼女は若いし、将来があるんだ。俺が無理やり誘ったんだ。彼女に危害を加えないでくれ。彼女は悪くないんだ! 全部俺の責任だから!」
自分の罪を認めるふりをして、不倫相手を必死に庇う夫。その姿に、私は殺意に近い絶望を覚えました。私の人生を壊しておきながら、まだその女の人生を心配するのか。
その「男気」を出す相手は、私ではないのか。
夫が不倫をしていたころ、光里は第2子を出産し、日々、必死に子どもたちのお世話に明け暮れていました。そんな妻をないがしろにし、自分は外で不倫していたなんて。絶対に許すことはできません。
ですが夫は、あろうことか不倫相手の女をかばったのです。光里は耐えきれず、早朝に子どもたちを連れて家をでます。そして友人・由美が、快く迎え入れてくれます。

