教育はエリートの身の飾りではない
親の虚栄心も問題です。哲学者の三木清は、教育熱心も方向を誤るとよくないということを『現代の記録』の中で書いています。
「有閑の婦人が教育に熱心であるのは結構なことであるが、熱心も方向を誤ると却って害悪を生ずるのである。東京の小学校の如きにおいては彼女等が毎日のように学校へ押し掛ける。しかし彼女等の脳裡にあるのはクラスの全体の子供でなく、自分の子供だけであり、そして特に上級の学校へ入学させることである。彼女等の希望は、自分の子供を一般に『善い』学校へ、或いは有名な学校へ入れて貰うことだ。善い学校へ入れようとすることは一面我が国民の進歩的な性質を現わすものであるが、他面それは実質の問題であるよりも有閑の夫人の虚栄心の問題であることが多い。子供の素質などはあまり考えないのである」(「現代の記録」『三木清全集』第十六巻所収)
入学試験の苦労から子どもを早く解放させたいというような親の考えがあるのかもしれませんが、受験などはその後の人生で経験する苦しみを思えば何ということもありません。
ある時、電車に乗っていると、同じ車両にいた母親が幼い娘に「仏壇はなんて数えるか知ってる?」とたずねました。子どもはすかさず「一基、二基」と答えていました。幼い子どもにとって仏壇の数え方など日常生活で必要とは思えないので驚いていたところ、次に母親は「じゃあ、船は」とたずねました。小学校の入学試験にこうした問題が出るのでしょう。
この親子を見て、親の虚栄心のために、親子が今しか経験できない時を過ごすことを犠牲にしてはいないか考えてほしいと私は思いました。
ギリシアの哲学者デモクリトスは「教育は順境の時は飾り、逆境の時は避難所」といっています。
教育はそれを学んだ子どもがやがてエリートとして社会に出た時に身を飾る「飾り」ではありません。もちろん、親が誇るようなことでもありません。日々勉強するのは、今の危機的状況を生き抜くための力を身につけるためであり、もちろん、自分のためだけに勉強するのではありません。

親が自分の人生を生きる
ここまで子どもの自立について見てきましたが、親も自立しなければなりません。生活面で子どもが自立するまでには長い時間がかかるのは本当ですが、親が思っているよりも早く大抵のことは自分でできるようになります。
子どもであっても、親の期待を満たすために生きているわけではありません。子どもにどんな人生を生きてほしいかを期待するのは親の期待ですが、子どもに親の期待を解決させることはできません。たとえ子どもが親の期待するような人生を生きないと決めても、その決断を応援するしかありません。
その後も子どもの課題に介入し続けると、親はいつまでも自分の人生を生きることができなくなります。自分の人生を生きるためには、子どもに自分が果たせなかった夢を実現させるというようなことを考えていてはいけないのです。

