泣けなかった
不思議なことに、トラちゃんが死んだとき、私は泣けなかった。お葬式のときも泣けなかった。自分では普通のつもりでいた。悲しいけれど、冷静に対処できていると思っていた。
しかし、家族からは「尋常じゃない」と言われた。何が尋常じゃなかったのか、自分では分からない。でも、いつもとは違う状態だったらしい。顔色が悪かったのか、目が虚ろだったのか、言動がおかしかったのか。今でも分からない。
悲しみが大きすぎると、泣けないことがある。感情を処理しきれなくて、フリーズしてしまうのだろう。泣くという行為すらできないほど、ダメージを受けていたのかもしれない。人間の心には、自分を守るための防衛機制がある。あまりにも辛いことに直面したとき、感情を一時的にシャットダウンしてしまうのかもしれない。
ペットロスという言葉がある。ペットを失ったときに経験する悲嘆のことだ。人によっては、人間の家族を失ったときと同じくらい、あるいはそれ以上の悲しみを感じることがある。「たかがペット」と言う人もいるが、そういう人はペットと暮らしたことがないのだろう。ペットは家族だ。毎日一緒に過ごし、愛情を注いできた存在だ。その存在がいなくなるのは、本当に辛いことなのだ。
今は、トラちゃんのことを思い出すと泣ける。時間が経って、やっと悲しみを感じられるようになったのだろう。思い出すたびに涙が出る。でも、それは悪いことではないと思う。悲しみを感じられるということは、それだけトラちゃんとの時間が大切だったということだから。
涙は、愛情の証と言う人もいるだろう。泣けるということは、それだけ愛していたということか。泣けないほど辛いときもあるが、いずれ泣けるようにはなった。で、泣くことで、少しずつ悲しみを消化していくことができるのかな。今でも時折泣いてしまうけれど、消化できているかは分からない。
動物も同じ苦境にある
哲学者デイヴィッド・ベネターは『人間の苦境(The Human Predicament)』という本の中でこう書いている。「我々は生まれ、生き、途中で苦しみ、そして死ぬ。永遠の時間の中で消滅する」。
これは人間についての記述だが、動物にも当てはまる。猫も生まれ、生き、苦しみ、死ぬ。犬も、鳥も、魚も、すべての動物がそうだ。生きとし生けるものはすべて、この苦境の中にいる。
むしろ、動物のほうが人間よりも苦境は深刻かもしれない。人間には、苦しみを和らげる手段がある。医療がある。社会保障がある。言葉で助けを求めることができる。しかし、動物にはそれがない。野良猫は、怪我をしても病院に行けない。寒くても暖房のある部屋に入れない。お腹が空いても、食べ物がなければ飢えるしかない。
反出生主義は、人間だけの話ではない。存在することに伴う苦痛は、人間に限ったことではない。トラちゃんも、大学のキャンパスで寒さに震え、空腹に耐え、内臓の病気に苦しんだ。生まれてこなければ、そのような苦痛を味わう必要はなかった。
ベネターは、人間の苦境について論じているが、その議論は動物にも適用できる。いや、適用すべきだ。動物の苦しみを無視することは、倫理的に正当化できない。動物も苦痛を感じる。恐怖を感じる。悲しみを感じる。人間と同じように、生まれてきたことによって苦しんでいる。
しかし、人間と動物には決定的な違いがある。人間は、自分の意志で子どもを作らないことを選択できる。避妊という手段がある。しかし、動物にはそれができない。野良猫は、本能のままに繁殖し、仔猫を産む。その仔猫たちの多くは、過酷な環境の中で命を落とす。生まれてすぐに死ぬ仔猫もいる。カラスに襲われる仔猫もいる。車に轢ひかれる仔猫もいる。飢えて死ぬ仔猫もいる。
これは悲劇だ。そして、この悲劇を人間は止めることができる。

