私が64歳のとき、92歳の母が他界しました。母の死が近いかもしれないと感じ始めたころ、私はどうしても伝えたい言葉がありました。それは、長い間胸の奥にしまい込んできた「ありがとう」というひと言です。しかし、その言葉を母に向かって素直に口にするまでには、幼いころから抱えてきた複雑な思いがありました。
母に伝えたかった「ありがとう」
母の体調が思わしくなくなり、私は母に伝えなければならないことがたくさんあると感じるようになりました。これまでのお礼や感謝の気持ちを、きちんと言葉にしておきたいと思ったのです。
ある日、私は病院へ行き、母のベッドのそばに立ちました。そして、ずっと胸にあった思いを話そうとしました。すると母は、私が言葉を続ける前に「何も言わなくていいよ」と言い、そのまま口を閉じてしまったのです。
その瞬間、私はどうしても伝えたかった「ありがとう」を母に言うことができませんでした。言葉が喉元まで来ているのに、どうしても声にならなかったのです。後悔と心苦しさで胸がいっぱいになり、どうしようもなくつらい気持ちになりました。
幼いころから抱えていた複雑な思い
母は私が幼いころから体が弱く、精神的にも不安定な時期がありました。そのため、生活を送ることさえ大変そうに見えることもありました。幼い私は、そんな母の事情を十分に理解できませんでした。「なぜ私はいつもひとりなのだろう」と感じることがあり、母に対して素直になれない日々を過ごしていました。
大人になり、結婚してからの母は、まるで人が変わったように私へやさしい言葉をかけてくれるようになりました。励ましてくれることも増えました。それでも私は、幼いころから抱えていた寂しさや、「今さらどうして」という気持ちを手放せず、母の愛情を素直に受け取ることができませんでした。

