去年末家族で集まった日に、父と叔母とで推しについてディスカッションになった。叔母には推しがいて、それは生活に彩りを与えてくれている、という。父は、推しがいないと幸せになれないのは贅沢だ、という。
ふたりはスパークし、最後には何故かお酒を酌み交わし泣いていた。なんで?
ちなみに父は藤井風さんが大好きで、毎日聞いていて、年末のライブも参戦する。それが推しだよ!と全員で説得するも、頑なに認めなかった。なんで?
私はオードリーがいないと、幸せになれない訳ではない。でも、オードリーがいた方が幸せだ。推しとは、なんと曖昧で、確固たる存在なのだろう。
いてもいなくても大丈夫だけど、いた方が良い、ものの数でいうならば、多いに越したことないと思う。自分の中の小さなセンサーが「これ、いいな」って震える時間は大切にしたい。
推し、という言葉は人物に向けて使う事がほとんどだけど、私は長年お気に入りのペンや、最近見つけたおいしいチョコレートでも十分推しだと思う。
あれもこれも、ではなく、自分の中にちゃんと染み込んでくる「これ、いいな」を選別して、吟味して、愛好する。
そうすると自分の価値観の輪郭が見えてくる。
自分はどうゆうものが好きで、どうしてそれが好きなのか考えるきっかけになる。結局推しは、ただの娯楽じゃなくて自分の軸を作るヒントのような存在だと思う。
「好きなものがある自分」はブレない、それは軸であり、豊かな事実である事に間違いない。

ちなみに最推しは娘だと思っていたが、やはり我が子と推しは似ているようで、大いに違う。彼女がいないと私はもう幸せになれない体だもの。
私の人生が薄暗い部屋の中なら、彼女はそこを突如照らした電球のよう。でもその薄暗い部屋に、オードリーはずっといてくれた。

オードリーは私に、グレーな自分のまま生きる勇気をくれた。白でもない黒でもない、グレーな自分を受け入れる、という選択肢を与えてくれた。そして何より、笑顔になる時間を増やしてくれた。その時間は決して無駄ではなかったと、私の心が言っている。私の心だけが言っていることを聞いてあげられる時間。推しを吸収する時間。それが無駄な訳がない。私以外の心は、ここでは関係ないのだ。
現実から逃げる為ではなく、現実を生きる為にわたしはこれからもオードリーを推していくのだろう。トゥース!
be a good enough mother.
そして、なんでもない日おめでとう!

