「足のない幽霊」の起源とは
ただし近年では「応挙が足のない幽霊を最初に描いた」という通説は見直されつつあります。応挙が生まれるよりも前に、すでに足のない幽霊が描かれていた形跡があり、たとえば元禄のころには、土佐光起の作品とされる足のない幽霊画もあったようです。
そうなると反魂香の説明には無理があります。反魂香の煙は応挙の絵から足が消えている理由にはなっても、幽霊から足が消えた理由にはならないからです。いつのまにか研究者の見方も「発明した」から「広めた」へと移っていき、本当の起源がどこにあるのかは今もはっきりしません。
おそらく応挙がしたのは、それまでばらばらに描かれていた「足のない幽霊」の姿を、ひとつの形にまとめ上げたことです。
白い着物、ほどけた髪、そして消えた足元。応挙の筆は、それらを「幽霊の姿」としてひとつに定着させたといえます。写生をきわめた絵師が描いたからこそ、その姿はまるで本当にそこにいるかのように見えたのでしょう。
葛飾北斎《百物語 お岩さん》(1831〜32年頃)。提灯と一体化した幽霊の姿。応挙以降、幽霊といえば足がないという表現が定着していった。, Public domain, via Wikimedia Commons.
このあとに続く絵師たちもこぞって応挙の幽霊を手本にしていきます。歌舞伎の舞台においても幽霊を宙に浮かせる演出が定着し、足がないことは「この世のものではない」という幽霊のシンボルとなっていったのです。
日本人が抱く幽霊のイメージを写生の名人が作ってしまったという、なんとも皮肉な話だともいえます。
幽霊画に込められた、愛しい人への祈り
《返魂香之図(はんごんこうのず)》にはもう一つのエピソードがあります。
妻と妾を相次いで亡くした弘前藩の家老が、その供養のために応挙へ描かせたとされ、一周忌か三回忌に間に合わせようとしたという説もあります。また《お雪の幻》に描かれたのも、応挙が夢の中で見た亡き人の姿だと伝わります。
若くして亡くした妻、もしくは愛人だったとも言われ、はっきりとはしませんが、応挙自身がこの絵を「幽霊」と呼んだ記録は残っていません。
そう考えると、私たちが長いあいだ怖がってきた応挙の幽霊画はもともと恐怖のためではなく、亡き人にもう一度だけ会いたいという切実な思いから生まれたのかもしれません。煙の中に死者の姿を浮かび上がらせる反魂香にも、同じ願いが宿っています。
足が消えているのは恐ろしさを強調するためではなく、もう二度と触れることのできない人が、それでもなお、そこにいることを伝えるためでした。
幽霊画の歴史をたどると、そこには大切な人にもう一度だけ会いたいと願う、残された人々の悲しみと祈りが見えてくるのです。
