カール・ラガーフェルドとは。シャネルなど携わったブランドアイテムを紹介

ファッション界の代表的なデザイナーの1人であるカール・ラガーフェルド。彼は2019年に亡くなるまで、名だたるブランドのデザイナーを務め、大きな成果を残してきました。シャネルを語る上では欠かせないカール・ラガーフェルドの経歴や手がけたアイテムを紹介します。

カール・ラガーフェルドとは

ファッション業界でモードの帝王と呼ばれているカール・ラガーフェルド。シャネル(CHANEL)やフェンディ(FENDI)、クロエ(Chloé)などのデザイナーを務めてきました。特にシャネルでは流行の最先端を歩き続けるデザインを提案し、若い女性から支持を獲得します。その結果、シャネルの低迷していた地位を揺るぎないものにしていきました。

そんなファッション業界の伝説的な存在であるカール・ラガーフェルドと、シャネルを題材にした作品「7DAYS OUT」もNetflixで公開中です。シャネルのショーの舞台裏7日間を捉えたドキュメンタリーで、カール・ラガーフェルドのインタビューが収められています。

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カール・ラガーフェルドの経歴

カール・ラガーフェルドは、紆余曲折を経て世界的なデザイナーとなりました。ここからはカール・ラガーフェルドの経歴をより詳しく解説します。

フランスに魅了された幼少期

カール・ラガーフェルドは1933年9月10日、ドイツのハンブルグブランケンゼーゼ地区にて生まれました。乳製品のビジネスで大成功を収めた実業家である両親のもと、絵本のような可愛らしいヴィラが立ち並ぶ高級住宅街で育ちます。

幼少期から絵を描いたり、美術館の絵を見たりするのが好きだった彼は、フランス絵画に出会ってからフランスの魅力にハマり、フランス語を勉強しました。幼少期の夢は漫画家でしたが、ファッションが好きなこと、ファッション界の方がお金を稼げると考え、14歳の頃に母親とパリに渡ります。

デザイナーとしての才能が開花

パリ・クチュール組合が創設したオートクチュールのプロを養成する専門学校「パリ・クチュール組合学校」に入学します。わずか21歳という若さにも関わらず、ファッションコンクールで優勝。同コンテストのドレス部門では、同級生だったイヴ・サン・ローラン(Yves Saint-Laurent)が優勝しています。

その後ピエール・バルマン(Pierre Balmain)のアシスタントとなり3年働いたのち、ジャン・パトゥ(JEAN PATOU/現PATOU)に起用され、クリツィア(Krizia)やヴァレンティノ(VALENTINO)、シャルル・ジョルダン(CHARLES JOURDAN)など多数のメゾンのデザインに携わるようになります。しかしその後はファッション業界を離れ、ビーチで過ごしたり、イタリアの芸術を学んだりして2年間を過ごしました。

フリーランスのデザイナーを経て、トップデザイナーへ

その後、イタリアからパリに戻り、フリーランスのデザイナーとして働き始めます。1960年代にはクロエのデザイン・コンサルタント、フェンディのデザインを担当。1982年になると、シャネルのデザイナーという大役を任されます。クロエでは1960年代から20年ほど、その後1992年から1997年まで、フェンディでは1965年から50年以上、シャネルでは1983年から亡くなる直前まで務め上げました。

1984年に自身のブランド、カールラガーフェルド(KARL LAGERFELD)を立ち上げ、デ・ドール賞を受賞し、2004年にはファストファッションブランドH&Mと提携します。どのブランドでも数々のヒット作を生み出し、貢献してきたカール・ラガーフェルドは、2019年2月19日に亡くなりました。